第一章 教育の普及と学習の一般化

  一、藩政期、越中人の学問と文化   

     平成15年10月23日 戸出商工会3F 高岡南 ライオンズクラブ例会

はじめに

 こんにちは。明神でございます。本日は高岡南ライオンズクラブの 例会にお招きいただきありがとうございます。事前にお聞きしたとこ ろ、皆様戸出・中田地区で、ご先祖以来お住まいとの事、どのような 話がいいのか、あれこれ思案していたのですが、今日は「藩政期、越 中人の学問と文化」と題して、皆様方のご先祖、といっても三代・四代 前ですが、どこで、どんな学問をしていたかをお話申し上げることにし ました。質問はどんどんしてください。分かる範囲でお答えいたしま す。

越中国の学問文化

 まずはざっと一般的なことから入りましょう。越中国はご存じの通 り、加賀藩領の砺波郡、ここもそうです、射水郡、新川郡、支藩の富 山藩、婦負郡と一部新川郡ですが、これらから成っていました。  武士の子弟は、加賀藩が金沢に明倫堂、富山藩が広徳館といった 藩校を持ち、明倫堂では14歳までに四書五経の素読を修了、23歳ま で義務教育、29歳まで希望者と定期的に行われた会読に出席しま す。広徳館は15歳以上3年間が義務と定められていました。その上、 皆私塾に行って儒学など理論をしっかり学び、藩校では論理の立て 方、説得の仕方を身につけるために討論を主にしていました。また選 抜された優秀者は江戸の昌平黌(昌平坂学問所)へと留学して、出世 が保障されています。身分が絶対ではないのですね。勉強ができれ ば出世できた社会です。

 では一般の人々はどうか。子供も大人も、よく学びました。教養それ 自体に意義があった時代です。まずいまでいう公立の学校として郷学 があります。砺波郡では明治二年に杉木教学所、今石動では文政の 頃に申義堂、射水郡では高岡町に文化三年修三堂、文政八年敬業 堂、明治元年高岡学館というもので、これらは郡治局や奉行所が後 援して、町在の有志者で作った学校です。漢学はもちろんですが、高 岡では特に石門心学を重視しています。商業によって利益を得ること はよいことと断じて、倹約・堪忍・正直の徳を説いて、士農工商は同じ 路を行くものである、という学説です。ちなみに17世紀のフランスで ジャック・サバリーは『完全な商人』の中で、①消費者であるお客さま 第一主義②よい品物を取り扱うこと ③商業知識を身につけて、時代 の動向に常に敏感であること ④利益計算が正しくおこなえること、こ の四つができている商人が完全な商人であるといっています。またプ ロテスタンティズムがヨーロッパの産業を興隆させたことはよく知られ ていることで、マックス・ウエーバーも論じています。ずいぶん似てい ますね。富山藩でも円隆寺で講習会を町人向けに藩が開いて、出席 を促しています。

 ここまでは組織的な学校ですが、次は個人的に師匠に就く塾です。 私塾は青年以上へ漢学や国学、特に氷見がそうですが、を教えて、 寺子屋より進んだ内容を学びました。一般に子供たちは寺子屋へ 通っています。寺子屋といっても寺だけではありません。町在の有識 者が師匠になりました。男児は8~9歳より4~5年間、女児は9~10 歳から3年間ほど、書くことを通じて、歴史・人の名前の読み方・地 名・物の名・手紙や商用文の書き方などを学びました。農業地域は農 閑期に集中して学習しています。授業料は盆暮れに幾分か持ってい くだけで、野菜や魚、米でもよく、子供の糞尿といった所もありました。 当時は結構これがお金になったのです。

 更に私塾や寺子屋と併せて、算学塾へも通い、実用の算盤や測量 術などを勉強しました。和算や天文学へ進む者もいました。また寺子 の中には、私塾や郷学へ進み、なおも江戸・大坂・京・長崎等へ留学 して、複数の私塾へ通む者もいます。その後も講習会へ参加したり、 サークルのようなものをつくって勉強しあっているので、まさに生涯学 習ですね。これを藩も奨励していました。特に越中国は、他県の人は 理解しにくいようですが、富山町を除いて武士がほとんどいない自治 都市です。行政・警察・藩政末期には軍事までも担っていました。黒 船が近海に現われて、御台場を伏木・放生津・生地、富山藩が四方 に設置し、ロシア船が伏木に突入するといったこともあります。藩は農 兵を編成し、これに人々も積極的に参加しています。そこで人々は熱 心に学び、文化が花開いたのです。当時の指導者層や経営者の素 養として、歴史感覚を身につけ、俳句や漢詩などに通じていること、お 茶やお花などの趣味を持っていること、が必須でした。互いに対等 に、論理的な話ができないと困りますから。今ならゴルフや麻雀という ことになるのかも知れませんが、かなり違いますよね。子供たちにも 寺子屋が終わると、謡曲などを選択授業で習わせています。将来の 付き合いということなのでしょう。

 他に今回はお話しませんが、仏教学(宗学)を論ずる学塾も多くあ り、「学国越中」という言葉もあったほどです。

戸出・中田地区の教育

 ここまで一般的なことをお話してまいりましたので、ここからは戸出・ 中田地区に絞っていきたいと思います。中田は売薬で栄えた地です し、戸出には古くから町人文化が根付いています。

 私塾の師範について、中田では明治四年に常国の医者で文政元年 二月生まれの松田竹次郎が漢学を教えています。幼時に土倉宗七 郎に学び、加賀藩儒者金岩善文に漢詩を学んでいる人で、医術は父 の成道に就いて修業したようです。

 下山田の河合平三(天保六年六月~明治十一年十一月二日48歳、 号神城)は農家の三男で、7歳の時に富山藩の近藤士専に学び、9 歳で藩主前田齋泰の御前で漢籍を講じて誉められ、床飾の獅子頭石 を拝領し、これは現在もご子孫のお宅の床の間に飾られていま す。16歳で加賀藩の鶴見小十郎、嘉永三年に京で梅ケ辻春樵に師 事して、安政三年六月26歳で分家し、混放堂を設立して漢学を教えて います。土蔵(5間×3間)の2階(3間×2間)を使っていたそうです が、両側の小窓から僅かに明かりが差す程度だったそうです。それで も多くの門弟がいて、礪波の松田快禅、自由民権の島田孝之、島 巌、高畠孫太郎、武部尚志、大井長平、安念次左右衛門などがいま す。

 戸出には教養人が多く、十村河合家11代目又右衛門欽斎(文化四 年生まれ、号雲渓)は、瑞龍寺の閑雲に書を学び、俳句も能くし、天 保初年に浦上春琴が来遊したので画も学んでいます。吉住村の常木 善増(蔵)は下関の書家泉伏翼に学んで、伝授書を授かっています。 また明治元年には竹村屋の菊池重郎逸斎(天保元年六月二日~明 治三十年九月十日68歳、号復堂、松東)や新屋の吉田仁平友信(嘉 永五年八月五日~明治二十二年十一月二十四日38歳、号琴堂)等 が中心となって、正義堂を設立しました。菊池復堂は加賀藩の吉益 北洲に医術を学び、京で吉益南涯と宗晋哉にも学んで医者になった 人(父は7代目武邦で寺子屋を開いていた)、吉田琴堂は祖父の国学 者友香、師の 五十嵐篤好の蔵書を整理 した人、と富山藩儒三羽迂堂に学び、十一人の弟・妹を支えました。 正義堂はこの近くにあったようですが、漢詩・論語・孟子などを教えて います。他にも中正楽寺金石諄恵(文化九年五月二十五日~明治二 十六年六月十五日)といった、あらゆる風流に通じていた趣味人がい て、請われるまま講じています。

 算学では戸出の(菊池家分家)竹村屋菊池橘五郎与之(寛政四年九 月~天保四 年十一月、号仲宝)が放生津の石黒信由に学んで、高瀬神社に文化 十年三月算額を奉納しました。横町大火が文化三年四月二十三日に あり、この復興にも尽力した人です。古戸出の大野彦次郎(号豊庫) も信由門人で、後に金沢へ移っています。文化十年三月安居の観世 音堂に算額を奉納しました。同門では放寺村、是戸村肝煎清都彦右 衛門と子の彦一郎がいて五十嵐篤好にも学びました。篤好門では横 腰村の矢後助右衛門がいますし、西部金屋には信由門人林宗右衛 門実森がいました。 次に子供たちが通った寺子屋に話を進めましょ う。中田では二家あります。土倉家と青江家で、土倉宗左衛門(号和 風)は俳句を能くした人で、天保六年寺子屋を開いて、これを養子の 宗七郎が継承して、慶応の頃まで開いています。青江善右衛門は天 保十一年に現在の農協支所がある場所で開塾し、養子の善右衛門 が明治まで継承しています。また伝四郎と書かれた記録もあります。 

 戸出では北町の石丸屋岡本久米吉が弘化の頃まで、東町の医者 木下屋周蔵(号東庵)が、また背戸屋・古武屋の尾崎善右衛門、大野 彌作といった人が開いています。また藩主前田家を支える八家の前 田土佐守筆生をやっていた石川友二効明(文化十四年~明治十九 年九月十四日、号竹影、文藻)が辞めて、天保六年戸出に移住しま す。五十嵐篤好に国学と算学を学び、書は広瀬旭荘(儒者折衷学 派、越中へも来遊、兄は広瀬淡窓)の流派で、住民から請われて家 まで建ててもらい開塾しました。あと忘れてはならない人物に武田貞 子がいます。女児だけの女寺子屋を開いています。女の人でも寺子 屋へは普通に通っているのです。文化十一年布瀬村十村高安豊助 定義の娘に生まれ、富山町で藩主前田利幹側室菊園に学問や裁縫・ 茶道を学んで、当地の竹村屋武田長兵衛に嫁ぎますが、家運が傾き 夫も元治元年に亡くなって、三男一女を抱え途方に暮れる間もなく、 技能を生かして寺子屋を開きました。上流家庭の娘が多かったそうで すが、それでも大いに賑わったそうです。女の寺子屋師匠はあと高岡 の大福院や、富山等にそれらしいところがありますが、いずれにせよ 女子教育の先駆けをなした人物であります。

 北般若では西部金屋の村肝煎兵四郎-当時から人々には姓・苗字 があ り、屋号を名乗ったりしていますが、忘れたりして明治に改めてつけ 直しています-という人が、姓・苗字は分からないのですがかなり寺 子を集 めた師匠として知られています。この人が明治二年破産したようで経 営を止め、寺子は分散収容されます。常木大助、この人は北般若村 初代村長で、祖父は先程お話した書家で俳人善増(号雲渓)です。縁 戚の常木宇太郎、林豊右衛門、落合村高畠次郎右エ門貞造、この人 の父は秋平で、蘭方医として有名です。その縁戚でしょう高畠庄左衛 門、高畑仁兵衛です。また戸出竹の願性寺32世法重や醍醐須田の 長念寺16世南木恵雄、横越の野江作右衛門(号文庵)も、明治前後 に寺子屋を開いて、地域教育に尽くしました。

おわりに

 時間が来たようですので、まとめのお話にしたいのですが。先程皆 様国旗に向かい、国歌を斉唱なさいましたね。最近こういうことさえも なされていません。郷土愛は国土愛の根本で、それは歴史を学ぶこ とから始まります。ぜひお子さんやお孫さんに地域を作った偉大な人 たちの話をしていただきたい。住んでいることに誇りを感じていただき たい。そのように願っております。

 退屈なお話でしたかも知れません。お聴きいただきありがとうござい ました。皆様方と、そして高岡南ライオンズクラブのますますのご発 展を祈念し、これで了りとさせていただきます。失礼いたしました。

 

二、藩政期 高岡の教育  

平成15年11月30日 森のふれあい館 市民大学た かおか学遊塾交流会

はじめに

 越中国は新川郡・婦負郡・射水郡・礪波郡から構成され、私達の高 岡は射水郡と礪波郡の一部から成って、加賀藩であったことはご承 知の通りです。ただ特色として、これは他県の人はなかなか理解しに くいようですが、武士がほとんどいない自治の土地でした。今の電車 通り、北陸銀行のある辺りの道を挟んで二ヶ所町奉行官舎がありまし たが、実際の町政は町人の自治に委ねられ、奉行は月に数度町会 所へ顔を見せる程度です。郡部でも十村以下が住民自治を行ってい ました。そして行政・警察だけではなくて、軍事までも担っています。 特に藩政末期には銃卒が編成され、高岡町では鳥山敬二郎などが 積極的に訓練に励んでいます。

多くの学習施設

 さて、本日は教育がテーマですので、まず藩士の学校からお話しま すと、加賀藩は明倫堂、富山藩は廣徳館がありました。明倫堂へは 藩士以外も入学できることになっていたものの、ほとんどは藩士の子 弟で、高岡からは山本道斎が唯一入学しています。では一般の町人 や村民はというと、これも子供であれ、大人であれ、よく勉強しました。 町では教養を身につけること、特に心学などでしたが、それ自体に意 味があって、先程の住民自治は高い教養に裏付けられていたので す。

 教育機関としてまず郷学があります。これは今の言い方にすると事 実上の公立学校でして、高岡町では文化三年修三堂、すすがや と読むようですが、影無坂の辺り、孝子六兵衛の碑がある所に作られ ました。文政八年に敬業堂が関野神社前、ここは詩を詠む人たちの ホテルの詩亭があった所ですが、これを改装して設立します。明治元 年に町奉行官舎の所に高岡学館、後に育英小学校が設立されます が、その前にこれがあったのです。これらは町奉行の積極的な支援 の下に、町の有力者が参画して作られています。長崎家、佐渡家、大 橋家など名立たる人々が全て関わって、高名な先生を連れてくること もありましたが、多くの場合は町人同士が教えあっているのです。例 えば津田半村、川上三六と逸見文九郎の尊王の志士として投獄もさ れた兄弟、碑が古城公園に並んで建てられていまして、子孫の方は 坂下町で時計店を経営していらっしゃいます、寺子屋も開いていた笹 原権九郎も選ばれて教えています。こういった別に子供たちが勉強 する場という訳ではなく、青年も大人もここで学びあっていまして、ま さに学遊塾のような生涯学習機関でした。先程も言いましたように、こ こでは漢学を、四書五経の読みはもちろん、特に石門心学を重要視 していまして、商売するものが身につける徳、即ち倹約・堪忍・正直の 大切さを学んで、利益を得ることは良いことであるという、マックス ウェーバーも同じようなことを言っているようですが、また士農工商は 同じ路を行くものであるとの認識を深めていました。

 私塾は青年以上の人々が漢学や国学を学ぶ所でして、寺子屋より 進んだ内容をやっていました。国学は氷見に多くて、高岡では漢学で して、ここにも町の人々が積極的に関わって、学びあっていました。 前の聖安寺があった所の下寺安乗寺に島林文吾を招いて、長崎浩 斎など後に名をなす人々が学んでいます。片原町では医者の山本道 斎がいまして、頼山陽にも学び、尊王の志士として活動します。書斎 の牛馬堂には頼山陽の子息三樹三郎が逗留して、逸見文九郎等とと もに時局を論じあっています。長崎浩斎も誠意堂を設立して漢学を教 え、藩政末の加賀藩政を牛耳った思想家上田耕が高岡にも来て、大 仏裏地の桑畑に建物を借りて、桑亭という塾を設けています。また湶 分に野上文山が待賢堂を設立して、後年各界で活躍する人々が通い ました。明治には大橋十右衛門が越中義塾、これは宮脇町にあった のですが、設立に尽力し、自らも衆議院議員になっています。郡部に は下山田の河合平三、常国の松田竹次郎、戸出で菊池復堂や吉田 琴堂が中心に正義堂を設立、中正楽寺の金石諄恵、東五位の五十 嵐篤好といった人々が活躍しました。

 算学は郡部で測量の必要性から学ぶ人も多く、石黒信由門下で戸 出の菊池橘五郎、古戸出の大野彦次郎、放寺村の清都彦右衛門、 西部金屋の林宗右衛門、立野の黒木義則などでして、一門では高木 村の北本栗、二塚でイオンのある辺り伏間江の筏井家の満好や親戚 の甚造などがいます。石黒門下以外では、横田今町の市姫屋林五 郎兵衛がいまして、『算学稽古記』を著しています。入門書とはいうも のの難しい本でして、高岡市立図書館で読むことが出来ますから挑 戦してみてください。二上村光蓮寺の住職栂森観亮は、洞窟で採光を 研究して管天儀等を製しています。

 寺子屋は市内至る所にあり、師匠は町では町人でして、郡部では寺 や神社も関わっています。特に大福院、今に地名が残っている所に あった頃ですが、ここの神子高たか、戸出の武田貞子の両人は女児 専門の寺子屋を開いていることに注目してください。寺子屋にはちゃ んと女児も通っていたことが分かるでしょう。また能町や吉久には御 蔵があったことから、足軽も開いています。伏木では村田三郎の大き な寺子屋がありました。また福岡町との境にある長光寺住職の雪象 が著名ですし、戸出や中田にも多くありまして、常木家からは優れた 人たちが出ています。

 子供たちや青年はこういった寺子屋や私塾で学び、更に算学塾へ も通って、実用の算盤や測量術などを勉強しました。また郷学へ進ん だり、江戸・大坂・京・長崎などへ留学して、しかも複数の師に就くも のもざらでした。浩斎の父長崎蓬洲のように、壮年で生涯学習サーク ルを作って学びあっていたりする人もいました。

 当時の指導者や経営者は、歴史感覚を身につけること、俳句や漢 詩に通じ、お茶やお花などの趣味を持つことが大切でして、互いに対 等に付き合い、論理的な話しをするための素養でした。寺子屋でも謡 曲などを教えていた所もあります。

 更に「学国越中」という語があるくらい仏教が盛んでしたので、優れ た学僧も多く輩出しました。このように高岡の人々はよく勉強し、高い 教養を持っていたのでした。

おわりに

 もっとお話したいのですが、もう時間が無くなってしまいました。質問 の時間がとれませんので、個々にお応えすることといたします。この 後に討論会もありますから、どうぞご出席ください。本日はどうもあり がとうございました。

 

 三、教育の普及と自治意識の高揚

平成16年4月20日 高岡市生涯学習センター 5F ウィング・ウィング高岡開設イベント

学問の一般化

 本日は越中国で、藩政期に学問・教育が普及したお話をいたしま しょう。江戸時代は全国的に平和で安定した社会でして、経済活動も 活発に行なわれ、農業技術が進展し、新田開発が進みました。二百 年前の文化・文政期は町人文化が花開き(化政文化)、最盛期を迎え ていました。ここ越中国も同様でして、富山藩は別にして、加賀藩領 下では町・村とも自治が徹底されていました。その背景には知識人層 の形成があり、具体的には識字者の増大と、算盤の普及でした。和 算は町人の間には、商売上の計算と帳簿付けなどに応用され、村民 には検地や開墾、農地の再配分の際などに盛んに用いられていま す。これに伴い正確な暦が作成され、天文学が発展しました。城端の 西村太冲や新湊の石黒信由といった名前はお聞きになったことがあ るでしょう。この技術には蘭学が用いられていますが、それは後に回 しまして、町人・農民には今お話いたしました素養をもとに、俳句やお 茶、お花などが共通のたしなみとして、男女問わず一般化されていきます。

教育の普及

 教育の面では、藩士については富山藩校の廣徳館が富山城の所に あり、学校運営には元金である才許金の貸付利息を充てたそうです。 慶応元年には才許金が一万三千五百両で、利息が五朱という記録が ありますが、詳細は不明です。富山は猛爆撃にあっているので、史料 が焼けてしまっているのが残念ですが、ぜひ現代に再建してほしいも のです。また加賀藩は金沢に明倫堂があり、高岡からも入学した医 者山本道斎といった人もいます。

 一般に教育が普及したのは藩政中期以降でして、各地に寺子屋や 私塾、算学塾が設立されて、男女ともここでよく勉強しました。また公 立学校である郷学も設けられていた所もあります。現在の行政区分 で、こういったところが無かったのは、宇奈月町と利賀村くらいで、宇 奈月には浄土真宗の大きな学塾、空華廬がありました。

 高岡には学習施設がたくさん有りまして、郷学として町奉行所が支 援した修三堂が影無の、今孝子六兵衛の碑が立っている所にあり、 これは文化の頃でして、文政の頃には敬業堂が関野神社の所にあ り、明治元年には高岡学館が、今の片原町万葉線が曲がる部分に北 陸銀行がありますが、ここが奉行所官舎でして、この隣に建設されて います。後にこの場所に育英小学校が建てられました。いずれも教 員には信望のある高岡町人があたっておりまして、互いに教え、教 わっていたのです。

 漢学私塾も多くありまして、一例をあげますと、弘化頃の百六十年 前に、大仏裏手に政治思想家、加賀藩のイデオローグである上田耕 が金沢からやってきて、桑畑の地に桑亭という塾を作っています。長 崎浩斎や山本道斎などの有識者も進んで町人の学習を指導しまし た。これらは大人の人の学習の場でもあり、町人同士の勉強会も盛 んに行なわれていまして、有名なものとしては、旧の聖安寺下寺安乗 寺で学習会がありました。寺子屋も各町にあり、子供たちの教育にあ たっています。

寺子屋の女師匠

 次にお話したいのは、寺子屋師匠に女の人がいたということです。  高岡の大福院という名は、現在大和のある所に通りの名として残っ ていますが、今は木津に移っています。もとは大福院通りの辺りに あったのでして、真言宗醍醐寺末寺で不動明王を本尊としています。 大福院中興の二世大僧都金寿院大智の下で修業した、大僧都阿闍 梨正寿院盛元が娘婿、即ち神子高たかの夫です。たか(文政元年~ 明治十九年七月十三日)は、幼いときから金沢で学び、歌も能くしま した。雪ふれば木ごとに花ぞ咲にけり いづれを梅と分きておらまし、 という句が残っています。天保四年二十六歳で女児専門の寺子屋を 開き、習字や女大学、百人一首の素読や商売往来を講義しました。 寺子は百三十から二百人程ですから、町のほとんどの女児が通って いたのでしょう。毎日午前七時から午後一時まで教え、謝礼は盂蘭盆 会と歳暮に10~20銭または物納のみでした。明治七・八年頃に育英 小学校の教員に就任していますが、塾は継続しています。

 武田貞子は、文化十一年に富山の布瀬村十村高安豊助定義の娘 に生まれ、お嬢様として何不自由なく育ちました。高安家は橘諸兄や 楠木正成とも連なる名家であります。戸出の山廻役を務める竹村屋 の武田長兵衛に嫁ぎましたが、ここで家運が傾き、夫は病死。三男一 女を抱えて、とにかく習得した学識を生かすことを考えます。貞子は 富山藩側室でこの後にお話する菊園に読み書き、裁縫、お茶を学ん でいます。塾を開くとうまくしたもので、上流家庭の子女が多く通って きました。明治七年十一月、または八年九月に没しましたが、長男は 山廻役を経験し、次男は高岡横田町の塩崎家へ養子に行き、三男は これまて福光の大家である石崎家へ、娘も地元の吉田家へ嫁いで 行ったの でした。

 師匠の菊園について。この方の研究はほとんどなく、調べると色々 なことがわかってきました。元の名は八百で、別に梅[林]園ともい い、松平志摩守家臣佐々登の娘と、史料には記されています。志摩 守を称する松平家は旗本にもあるのですが、大名では豊後杵築藩や 福井藩分家出雲母里藩がありますので、確定できません。八百は富 山藩主前田利幹の側室に選ばれました。利幹は九代藩主ですが、先 代利謙とその子利保の間の中継ぎの藩主でして、大聖寺藩前田家の 分かれから入りました。最初からそうであるため、菊園は長男(夭 折)、次男(豊後国府へ養子へ行く)、三男(明治三年没)、四男(明治 二年没)、五女(龍野脇坂家へ嫁ぐ)を生むものも、藩を嗣がせること は出来ませんでした。天保二年四月に飛騨高山の田中大秀に学ん でいます。今でいえば通信教育のようなものです。田中大秀は、薬種 商の三男で、本居宣長と子息の大平などに国学と和歌を学んだ人 で、ひちりきや琴なども能くしました。越中からは十人、そのうち富山 は八人が入門し、天保十二年三月には越中国にも来遊しています。 菊園は、廣徳館の一室を使ったのかもしれないのですが、ここで町人 の子弟を交えて女子教育を行なっていました。高岡中央図書館にあ る自筆の掛軸を見ますと、几帳面でかつ気丈夫な性格が彷彿とされ ます。天保二年四月の富山大火で大活躍し、布瀬村まで姫を避難さ せています。このことが軸に記されていますから、よろしければご覧く ださい。安政二年四月十五日に没しています。

 富山南の開発に曹洞宗の尼寺で、法輪寺があります。ここは今は 無住状態ですが、明治維新前後の智覚明慧尼は塾を開いていまし た。史料にはトエラ先生とあり、方言かとも思って調べ、聞いたりした のですがよく分からなかったのですが、ある時にふと思ったんです。 これは「寺」の読みではなかろうかと。これは推測ですが、かなり確信 をもっています。

 他にも男女共学の寺子屋は多くあったのでして、一階が男児、二階 が女児という具合であるのが多くみられる形態です。女児は早く帰り、 男児は残って謡を習ったりしました。富山の小西屋等大規模な寺子 屋もありました。

蘭学の流入

 蘭学が医学書を通じて入っています。杉田玄白らの『解体新書』は 有名です。蘭学といっても、オランダに限らないのですが、とにかくど この言語でも長崎に入れるときにいったんオランダ語に翻訳したので す。しかし高価であったため、筆写されたり、和訳・漢訳されたりして 普及していきました。

 越中国にも多くの医者の玉子たちが、京や大坂、江戸などに留学し て、蘭方医塾に入門しています。高岡では長崎蓬洲や浩斎、佐渡家 六兄弟など多くを輩出しています。そしてこの医学技術が各分野へス ピンオフしてゆくのです。天文学・測量、これらは暦を作り、地図を作 り、田の面積を測って公平に再配分することで使われ、また荒地の開 墾に応用されます。軍事の面では、上市とも関係のある黒川良安の 活躍があり、藩の西洋式陸軍の創設を研究します。また海軍研究も 行われました。

 和算の素養のあった人々は、学んだ知識を応用し、蘭学という新し い学問と技術をこれまでの伝来のものと綜合して、発展させました。  このように、越中の人たちはよく学び、文化水準も高かったことは、今 この地に生きる 私たちは心に銘記しておくべきことでしょう。

 

四、藩政期高岡の人々と生涯学習

『学遊らいふ』vol10(平成16年10月5日)掲載

はじめに 

 加賀藩政下の高岡では、町・村とも住民による広範な自治が認 められていました。それは寺子屋・私塾・郷学による教育の普及 と、俳句や漢詩等で代表される成熟した文化によって裏打ちさ れ、幕藩末・維新期の激動にも冷静かつ柔軟に対応し得まし た。

寺子屋教育

 まず子供達は一般に男児八・九歳、女児九・十歳の頃より、今 の朝八時から二乃至四時頃まで寺子屋へ通います。高岡には 実に多くの寺子屋が存在し、能町辺りの御蔵番によるものを例 外として、高岡町や伏木・戸出では住民有志、その周辺の村々 では寺や村肝煎等が師匠になりました。その中には女児だけの 寺子屋を開いた高岡町大福院の神子高たかや戸出の武田貞子 といった女師匠もいます。他にもお針屋に通う女児も多かったよ うです。

 寺子屋では読み書きはもちろん、珠算や謡まで学びます。四 月二十五日の関野神社境内天満宮への清書奉納や七夕の行 事は盛大に行われたそうです。

私塾教育

 男児は四・五年、女児は約三年寺子屋で学んだ後にも、さらに 漢詩や算術を学びたい青少年は、各地にあった漢学中心の私 塾へ通います。 高岡町では思想家による私塾も開かれ、藩政を 牛耳る黒羽織党の実質的な指導者である上田耕も大仏裏で学 舎を建て、片原町尊王家で頼山陽門下の医者山本道斎といっ た人もいます。

 また文化十一年には医者で文人の長崎蓬洲と粟田佐久間 が、富山藩眼科医で漢学者でもある島林文吾を聖安寺中安乗 寺に招き、嗣子長崎浩斎と粟田庸斎を始め、町の青年に講義を 受けさせました。

 更には算学・測量・天文に通じた放生津の石黒家(信由から信 基まで)、その親類で二塚の筏井家、信由に学び国学に通じた 内嶋の五十嵐篤好に入門する人々も多く、明治元年戸出では 菊池復堂・吉田琴堂等の尽力で正義堂が開かれています。

町・農民の学習

 公的機関としては高岡町奉行が主唱し、町人有志の出資で無 料で学べる郷学が設立されます。文化三年影無で修三堂、文 政八年関野神社前で敬業堂、明治元年奉行官舍で高岡学館で して、運営は全て町人があたり、年齢の別なく集いました。修三 堂には石門心学の脇坂義堂、敬業堂には富山藩校廣徳館の儒 学者小塚南郊を招きましたが、高岡学館では町人の中から読 師・句読師等を選んでいます。

 自主的な町人同士の勉強会も盛んで、俳句や漢詩の会を作 り、加えて画や活花・茶道等を通じてお互いを尊重しあい、識見 を高めることにも努めました。

 長崎蓬洲・後藤白雪・富田毛桃は壮年にして春秋左氏伝の会 読に集っていますし、石堤長光寺織田家十七世雪象は、寺子屋 を開く傍ら、高岡町や福岡の人々と交際し、積極的に詩会へ參 加しています。医者で文人の立野日尾清作や西部金屋の蘭方 医高畠秋平は、晩年まで学習意欲が衰えることはありませんで した。維新前の高岡町では、蘭方医佐渡養順(三良)が弟である 坪井信良からの書簡をもとに町人有志で時局研究会をたびたび 開いています。

まとめ

 このように高岡各地の人々は昔からよく学び、「生涯学習」は 定着していました。学ぶことを通じ人々は職業倫理を高め、歴史 感覚を会得し、共通の思考言語を持っていたのです。

 古くて新しくもある「生涯学習」の意味を私達は郷土の歴史の 中から再認識し、よき伝統を次世代へ継承していきましょう。

第二章 海防に見る郷土意識の高まり

 一、黒船出没と越中国海防 

平成14年12月1日 成美公民館 市民大学たかおか学遊塾交流会

はじめに

 皆さん今日は。本日はようこそお越しくださいました。午前中のプロ グラム最後は、私明神の藩政期郷土史のエッセンス講座です。今年 は寒くなく、晴れていて暖かいので安堵しました。今からのお話は、七 ~八月におとぎの森館で全6回行った内容を縮約したものです。どう ぞ楽に、椅子ではありませんので足をお崩しになって気楽にお聞きく ださい。 皆様、どちらから御見えになったのですか。皆さん高岡です か。地図でお示ししますと、藩政期には福野、福光、福岡などを含ん だ砺波郡、高岡を含む射水郡、そして新川郡と加賀藩領は分かれて いて、それに富山藩の婦負郡などがありました。高岡には高岡町奉 行、城端・氷見・今石動(小矢部)には今石動奉行が置かれ、各郡に は郡奉行が、新川郡は少し込み入っていますが、町奉行や郡奉行が 置かれていました。お聞きしたいのですが、伏木、放生津(新湊)、生 地(黒部)に御台場(海岸砲台)があったことはご存じでしたか。生地 のはきちんと整備されています。県指定なのですよ。一方、伏木のは プレートがあるものの、いまひとつ分かりにくい。ましてや放生津にい たっては跡もよく分かりません。各五門ずつ大筒が置かれました。た だし、放生津には砲は設置されていません。伏木の御台場をお示しし ますとこのようなものでした。別に富山藩では四方に設置したという史 料が残っています。跡地にいくと、碑はあるのですが、乃木大将の筆 になる顕彰碑(日露戦争)でして、はっきりしないのです が、文書があるので設営したことは間違いないようです。

 では、伏木にロシア船が侵入してきたことはどうでしょう。今の話で はなく、安政六年のこと、今から約百五十年前の話です。ペリーが やってきて(嘉永六年)、その後に安政の大獄があった時期で、開港 (神奈川、箱館、長崎)した年と同年です。小船を降ろして、湊内深くま で入っ てきたんです。陸から目と鼻の先で、測量のためであったようです。 当時の人はこの様に詳細な記録と絵を残しているんですね。今のよう にビデオカメラ等というものがない時代にですよ。その注意力たるや、 現在の我々の想像を超えるものです。これは高岡と伏木の図書館で 閲覧できます。こういったことが、伏木の地元でも知られていないよう で、現地で伺ってもそのような答えが返ってきました。でも黒船がやっ てきたのは、浦賀ばかりではなかったんです。

黒船騒動

 さて、文化年間より-19世紀初めですが-日本海にロシア、フラン ス、イギリス、アメリカの船が頻繁に現われます。目的は捕鯨船寄港 地(食料・水等)、石炭などの貯蔵地、海図調査、不凍港の確保、また は冒険のためなどで、一旦はフランス革命やクリミア戦争で下火にな るものの、嘉永・安政の頃にまた現われます。それが百五十年前な のですが、昔のように思えて、実はそんな前ではない。三、四代前の ご先祖が小さい頃のことです。日本海も同様で、佐渡や能登の沖合 まで入ってきます。どこかで聞いたような話ですが、ほとんどが国籍 不明の不審船でして、人こそさらわないまでも、嘉永元年四月には大 豆二俵を、安政六年三月には魚が、商船や漁船より強奪されていま す。

海防

 そこで、加賀藩が-富山藩も追随-海防(国防)策を急ぎ策定し、 実行に移します。重点は新川郡でして、地図を見ますと、能登半島と ともに海上ルートを扼する位置にありまして、北前船などが行ったり 来たりしていました。能登や佐渡と適当な距離のある、入り込んだ カーブのこの場所は、防衛の拠点でした。当時、加賀藩は専ら支配を 十村-大庄屋のような存在で、今の村長のような役目-中心の自治 体に任せていたので、海防面でも、この十村に依存していました。

 まず連絡面で整備します。①文化四年六月新川郡に遠見番所が設 置されます。場所は宮崎城跡、横山、生地で、望遠鏡で沖合を監視し て狼煙を受け継いで伝達するんです。天保十四年八月より情報収集 に全力を入れます。②嘉永三年五月に急報の書式を簡略化して、事 実のみ簡潔に伝えるように指示が出ました。それまでは書式が厳格 で、作成まで時間がかかったんですね。この時代にあっては異例の 措置です。③安政六年金沢への飛脚の報告を、前田土佐守に一本 化しました。この家は、前田利家の次男利政の家系で、この人は関ケ 原の時に徳川家康ににらまれ、処分される(能登より改易)のです が、息子(直之)が利家の妻のまつさんに大事にされ、藩老(八家の 一つ)になったんです。ここへ直結しました。

 次に人夫を動員します。これは補助戦力として集められました。文 化四年に新川郡に適用されたものが越中国での最初といってよく、嘉 永以降には全郡で決められました。15~60歳の男子が対象で、海か ら離れた内地でも早足人-一日に20里(約80km)を走行-を選抜し ています。人夫は籤引で選んでいます。事前に竹のありかを調べ(竹 槍にする)、非常時には鋤や鎌などをもって指定地に集合し、旗など を立てたり(夜には松明を擬兵)して、警備を厳重にしていると見せ る。女子や子供は避難させ、無理に戦わない(説得に努める)、という ことになっていました。安政三年二月には射水郡でも集合地など詳細 が決められています。嘉永七年の人数を紹介しておきましょう。砺波 郡一万三百九十七人-ここは藩の穀倉地の役割-、射水郡六千九 百七十人、新川郡一万三千四百四十九-人口急増地で、魚津郡代 が置かれて越中国の中心-でして、即日、翌日、翌々日の三段階召 集になっていました。

 では藩士たちはどうであったかというと、卒の足軽を弓から銃に切り 替えました。これが安政三年一月のことです。新川郡は魚津(魚津郡 代と町奉行所)と東岩瀬(新川郡奉行)で、射水郡は小杉新町-ここ は射水郡と砺波郡の中心-でして、高岡には奉行所の足軽が少人 数いたに過ぎません。砺波郡は杉木の出張所と今石動が該当してい ます。

 そして御台場の建設がありまして、先程も申したように、生地と伏木 に五門、放生津は砲台のみを作って、あと富山藩が四方に作ってい ます。ただ砲種が臼砲なので、高角度にズーンと飛んでいって、距離 や命中率は期待できないため、威嚇のみで実戦的ではありませんで した(現に伏木へのロシア船侵入時には使用せず)。

 これらに伴い銃砲生産を拡大させます。従来は能登の中居が独占 的に生産を請け負っていたのですが、ここに高岡の金屋鋳物師がク レームをつけます。自分たちにもやらせてくれというわけで(当時規模 で全国一)、嘉永六年には大量発注があります。これは金沢の壮猶 館、旧の火術方役所からの受注で、実はここの奉行に大橋作之進も いました。この人は高岡町奉行を長くやっていて、関野神社前に敬業 堂という町人の学校をつくるのに力を入れた奉行でした。金沢では自 宅に研究所まで持っていた学者でもあり、この人との繋がりがあった ことも大きかったでしょう。七代目金森藤平さんは、高岡が銃砲生産 の一大拠点になっていたことを証言しています(金森藤平商事株式会 社『四十年の歩み』28ページ)。

 

  幕末における高岡の鋳物は、表面的には社寺用品をはじめ日用 品や農具の生産であったが、事実は非常時に据えて鉄砲や武器の 鋳造が 中心だった。また、年老いてタタラを踏めなくなった高年齢層 労働者によって始められた銅器の生産は、実際は小銃弾の製造だっ たという。

  七代目金森藤平の時代だった。

  明治元年五月、仙台藩を盟主とする奥羽諸藩は奥羽列藩同盟を  結成、やがて長岡藩をはじめ越後諸藩もこれに加入。この列藩同 盟と官軍との本格的な戦闘は、まず越後で展開されたのである。

  官軍が長岡藩を攻める途中、高岡の御用鋳物師を呼び出して「兵 器を引き渡せ」と厳命したが、七代目金森藤平は、「そんなものは造っ  ていない」と申し開きをしたという。

  ところが、幕軍の敗戦がはっきりするや、最後まで旗色をはっきり させなかった加賀藩御用の高岡鋳物師たちは、武器弾薬の製造に当  たっただけに薩長軍ににらまれ、身の危険を感じ、兵器関係の書類 をすべて焼きつくし妻子を残して伏木港から北海道に逃げ、榎本武揚 の 函館戦争を体験した。その間、一行の生活は乞食同然のところま で困窮したらしいが、逐次生活をとり戻し、ひそかに伏木港から米を 移 入して帰えり船にニシンを積み交易をし、西南戦争も集結した明 治十年頃高岡へ帰った。さっそく鋳物と銅器の生産を再開したが、ま ず金沢の兼六園に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の銅像を寄進して 当時の政府に忠誠を誓ったのである。

 

 並行して資源の調査を領内くまなく実施して、鉱脈や石炭を調べ、 白炭づくりに力を入れています。しかし反射炉が加賀藩になかったの で、タタラ生産に頼らざるをえませんでした。それとこれまで五箇山に しか許されていなかった硝石生産が全郡で奨励され、立山(滑川に 蔵)の硫黄とともに増産されています。これらは火薬の原料ですね。 銃や大砲の玉を飛ばすのに不可欠なものです。硝石はどうやって作 るかですが、二通りあります。床下の土から採る方法は、①土を桶に 入れ水に浸す②この水を灰に通すか、灰に通した水をこの水に加え る③水溶液を煮詰めて結晶化させる④これを水に溶かし、ゴミや泥を 沈澱させ、煮詰めなおして結晶化する⑤さらに濾過して精製し、結晶 化する、というもので、まあこんな感じかという気もしますが、もう一つ の硝石丘から採る方法がすごい。材料が黒土や上畑土、牛馬鳥など の死骸や古壁、厩牛小屋あるいは穴蔵・せせらぎ等の土、石灰、草 木灰、大小便で、これらを混ぜ合わせて丘を築き、その周囲を板張な どで囲いを作り、一年目及び二年目の八月頃まで毎月、あるいは 二ヵ月ごとに糞汁を入れて切り返す。三年目になると丘の表面に硝石 分ができるので、表面三分五厘ほどの土を削り採る。混ぜ合わせる 割合は、黒土など百貫目に対し、牛馬の死骸や大小便など百五十貫 目石灰十五貫目、草木灰五十貫目、というものでした。これは臭かっ たでしょう。福光では「インシュ」蔵と呼び、異臭に辟易したとのことで す。

 初動防衛力として、武士の部隊である在番が、文久二年十二月- 百四十年前-に新川郡へ赴任しました。全部で六隊でして、各々武 士が約三十人と馬が一匹及び人夫が付きました。

 翌年から郷土防衛隊として-民兵ですが-農兵の訓練が始まりま す。銃卒といわれまして、今石動、小杉、杉木、魚津、生地、高岡、伏 木、放生津、東岩瀬、泊、氷見(順序は原史料の通り)及び富山に屯 所が置かれ、高岡には御旅屋にありました。庄川や神通川といった河 川の川原や浜地で大規模な中隊・大隊単位で訓練を行っています。 出張所が井波など遠隔地に置かれ、後には屯所も増やされていま す。17~30歳の五尺以上の男子が対象で、当初は籤引など必要なく 集まりました。私見なのですが、格好良かったんじゃないでしょうか。 揃いのユニフォーム(陣羽織、たっつき袴、漆塗りの三角形の扁平 笠)に、最新のイギリス式エンフィールド銃をもっているんです。この 銃は内側に螺旋があるライフルで、着剣が出来ました。ということは 長い刀から解放されることを意味し、画期的なことでした。しかも銃卒 は短刀を腰に差すことが許され、それに太鼓の、今でいう軍楽隊や鼓 笛隊のようなものも作り、町中を行進するのですから、これはもてた でしょう。優秀者へは報奨もあり、希望すれば藩正規兵(足軽身分) への道もあるんです。

領民の協力

 特に強調したいことは、これらは決して一方的な藩の押しつけや、 強制労役ではなかったという点です。当時の人々は黒船襲来を脅威 としてとらえていて、小林一茶の俳句に、門の松おろしあ夷の魂消べ し というのがあるくらいでして、古の元寇を想起したでしょうし、年表 にも記しましたが、安政以降たて続いて災害やコレラなどの疫病が あって、その関連からも危機感はピークに達していたのでしょう。藩士 たちに、動揺して「臆病風に吹かれ」(原史料にもあり)る者も出ます (精神的に参って切腹する者や、仮病を言って在番赴任を拒む)が、 反対に一般民衆はむしろ意気軒高でした。

 それは、この時期、町人文化は成熟期を迎え、高岡や氷見などの 町部ではこぞって寺子屋や公的な教育機関に通い、俳句、漢詩、謡 に通じている人も大勢いたのですから、自治意識も高いですし、高岡 や氷見は、国学の普及で攘夷思想が強い町です。郡方(農村)でも十 村などが中心に、人々をリードしていたことは、残っている史料から読 み取ることが出来ます。また文久三年二月に、当時の藩主前田斉泰 は異例の書簡で、家財を奪われ妻子を害されるのは無念であるとし て、領民に郷土防衛への協力を呼び掛けていますし、安政年間に財 政危機にあった藩へ、町や郡から海防費の寄付(冥加)が相次ぎ、銃 卒稽古も熱心で、また医者や大工などから協力の申し出もありまし た。高岡の医者では長崎言定、山本道斎、高峰元?(譲吉の父)など 十三名が連名で申し出ています。銃卒には、町や村の有力者子弟が 率先参加し、まさにノーブレス・オブリゲイションでして、高貴な生まれ の者は思い責任を負っていることに自覚があるわけです。銃卒稽古 は人材の育成にも貢献しています。堀二作、鳥山敬二郎、稲垣示 等、後に明治の政界で活躍する人々の多くは、銃卒に参加していま す。堀さんの家は横田にありますが、ここは高岡町の外だったため、 小杉まで歩いて通ったそうですから、今の人には真似できません。銃 卒隊は、実際には戦闘に参加することは少なく、狼退治に出たり、浪 士侵入への警備が仕事で、明治に新川郡のばんどり騒動鎮定で活 動しました。

 しかし元治元年(一八六四年)になると、急に意識の低下が見られ ます。前年までの熱気が醒めてしまったんですね。それは国内政局 へ政策が転換したからで、この年に長州藩が京の蛤御門付近で御所 への突入を図っています。加賀藩も巻き込まれ、結果海防目的から 外れてしまい、そのため寄付は集まらない、借上銀や御用金といった -さしずめ強制的な地方債ですが-非協力的で、銃卒稽古もさぼり がち。理由が、歯痛、風邪、足痛、商用で不在、町方奉公、はては特 に理由はないけれど誰も出ないから出ない、といった具合です。人夫 も海防用から国内の荷物運び用に変わってしまい、財政上から在番 も廃止されてしまいました。その中にあっても、高岡銃卒は士気が高 く、それは高岡の尊皇意識が高かったからでしょうが、京都にまで出 動しています。

 ともかくも藩末にあって、外からの脅威に上下一体となって対処した 歴史の経験は、その後明治時代に受け継がれていきました。

おわりに

 駆け足で見て参りましたが、私たちの郷土でありながら、何と知らな いことが多すぎることか。史料も埋もれているものが多いし、破損、紛 失の怖れがあります。今、私は寺子屋について調べているのですが、 家に史料がある、先祖が師匠であったという方は、ぜひお知らせくだ さい。

 それはそうと、この様な歴史の上に、現在の私たちがあり、また私た ちは現在の郷土や日本にいて、先人に対し恥ずかしくない歴史を作っ ているか、再確認する必要があるでしょう。

 拙い話で失礼いたしました。ご質問をお受けいたします。

Q,銃卒の使った銃はどこで製造されたのか。輸入していたのか。

A,金沢の壮猶館、ここは大橋作之進や上市出身の黒川良安が関 わっていますが、ここが送り先でして、輸入したものを主にしつつ、模 倣したものもあったと思われます。壮猶館は兵書の研究をやってい て、西洋銃砲の製造にあたっていました。各屯所へ最初に八十挺送 り、その後拵え直しの一挺を見本として送付し、後日八十挺送ってい ます。新川郡では個人所有となっていて、名前入りでしたが、どこの 郡でも厳重な管理下に置かれていました(富山藩では慶応の頃に、 長崎で林太仲が西洋銃を大量に買い付けています)。

Q,銃卒の指導者は藩だったのか。

A,十村や肝煎りといった町や村の役人でした(ただし初期は教師に 足軽を任用)。藩の資金で運営されていましたが、寄付金が多く集 まっていたことは先ほどお話したごとくです。ちなみに幕府もすでに民 間登用の歩兵が中心で、こちらはフランス式の装備と軍服・軍帽で統 一されていました。

Q,銃卒はいつまで存続していたか。長州の奇兵隊のような末路は辿 らなかったのか。

A,明治三年まで存続しています。この年政府より常備軍を一万石に つき六十人建設するよう命令が出され、全国的に農兵は解隊されて います。また、萩のような農兵解散に伴う混乱はなかったようです。

Q,瑞龍寺の屋根瓦に鉛が吹かれていて、戦時に使用するという話を 聞いたが使われたのか。

A,そのような記録はありませんし、この時代の鉄砲に使えるかどう か。藩政初期ならともかくも、ですね(銅の確保に梵鐘を利用しようと いう計画が全国的にあったが、越中国では実行せず)。

Q,伏木の御台場は海岸に設けられていたのか。

A,沿岸部にあったようです。プレートがありますが、そこの場所から は離れたところですので、分かりにくいし、工事中ですので行きにくい かも知れません。

 

二、異国船襲来の危機と銃卒の育成

平成16年4月20日 高岡市生涯学習センター5F ウィング・ウィング 高岡開設イベント

沿岸防衛

 今から二百年前の文化年間、ここ越中国の沿岸へも異国の船が出 没しはじめます。初期はロシアでしたが、クリミア戦争の影響もあって 勢いを失い、やがてイギリス船の姿も目立ち始めます。越中加賀藩 領沿岸は、廻船交易の日本海ルート上にあり、従って異国船の脅威 に敏感でした。また、現に後の嘉永・安政頃には異国船に襲われ、魚 や大豆の俵などが奪われるという事件も起きています。

 そこで沿岸防備、海防といいますが、これを強化するため、異国船 を発見した際は、すみやかにその情報を村々に伝え、その手段は狼 煙の受け渡しですが、また各地の奉行所と本部の金沢に伝達する ルートを整備し、そのための飛脚を指定します。飛脚見合札というの があり、14㎝×8㎝の木札で、裏には食事のことや、その他諸々便宜 事項が書かれており、係った経費は後程清算するものとされていまし た。担当は前田土佐守で、この人は前田利家の次男を先祖にもち、 今は金沢の邸宅が博物館になっていて、鎧兜などが展示されていま す。

 また人夫を沿岸に動員し、おどし鉄砲-これは猪などを射つもので 威力は期待できません-槍、鳶口、鎌などを持ってこさせ、初期防備 に努めます。続いて嘉永頃、百五十年程前よりは、御台場すなわち 沿岸砲台を建設しました。越中沿岸では黒部の生地、これは今ほぼ 原寸大のレプリカが置かれていますが、ここに非常時に庫から臼砲 (モルチール)を五門引き出して置くことになっていました。ただし実際 は三門しか確認できず、他は擬似砲を据えていたのではないかという 仮説を提起する研究者もいます。またモルチールですから、高く打ち 上がります。本来は山の斜面の向こう側に打ち込むための砲ですか ら、沿岸砲としては不向きで、しかも螺旋を切っていませんし、椎実型 の弾ではなく円弾です。中に火薬が有るものと無いものがあり、どうも 距離も命中率も期待できないものでした。ただこの場所は枢要の地 でして、地図を見ていただければよいのですが、佐渡や能登との距離 が適当にあり、海上ルートを制する位置にあることが分かります。伏 木にも建設し、ここは五門が確認できますが、いずれも和筒で、非常 時に串岡の庫から引き出すことになっていました。場所は現在支所 のある前あたりで、現在案内板が草叢の中にあります。両者とも着工 から完成まで何ヵ月もかけていません。驚くスピードで完成させてい ます。 放生津すなわち新湊には、現在跡形もありませんが、八幡宮 近くに台場のみ作り、砲は据えませんでした。当時全体的に銃砲は 不足気味で、回す余裕が無かったとも推測されます。なお高岡の金 屋では、鉄砲や弾を大量に金沢の軍事研究所である壮猶館、ここの 責任者には高岡町奉行を経験した大橋作之進、実務面では医者で 上市に関係の深い黒川良安が関わっているのですが、ここから発注 を受け、製造して納めています。この事実はあまり知られていないの ですが、それは新政府軍の通過時に、類の及ぶのを恐れた鋳物士達 が書類を焼いてしまったからという話もあります。ただ断片的に喜多 家の文書で知ることは出来ます。また硝石は五箇山に限らず、領内 全域で製造に努め、硝石丘を築く方法は馬などの死骸に糞尿をかけ て三年扱き回すというもので、すごい臭いでした。これとは別に家の 軒下に潜って土を採取し、ここから抽出してもいます。以上は加賀藩 の御台場でしたが、富山藩では四方に文久頃、百四十年前に築いた ことは間違いないのですが、文書はありません。空襲で燃えてしまっ たことも考えられます。なお、氷見でも縄張り、設計図を書くことまで はされましたが、工事はしていません。

銃卒の育成

 さて、先に人夫を動員したことをお話しましたが、初動防衛ではまこ とにお寒い状況でして、武装というほどではなく、実戦の用には立ちか ねます。そこで文久二年には、沿岸防衛兵力として、在番という武士 の部隊を派遣するのですが、中には動揺して俄に隠居したり、急病に なったりして参加を渋る者や、指揮官には精神不安定に陥る者まで 出る始末でして、まことに心許ない(越中国では泊などの新川沿岸に 赴任し、この部隊は士気も高く、この点でイラクに出動している自衛 隊と同様でしたが、武装が旧式です)。こうなるとどうしても十村、他藩 では大庄屋のような存在といわれますが行政も担う農家です、及び 町役人を指導者とする、領民に頼らざるをえないのです。

 この時の人々は実に郷土防衛に燃えていまして、藩士を凌ぐほど の意気でした。献金も進んで行ないます。これは少額からあって、大 筒を作る目的であったり、防衛参加への要望を添えたり、高岡の医者 は連名で非常時の協力を申し出ています。中には役所の決断が遅い と突き上げている人もいます。そんな中で藩は、全領内で海の有無に 関係なく、人夫を大動員する計画をたてました。これは各郡、越中国 は新川・射水・礪波と富山藩の婦負ですが、数千人規模で、合わせる と万になり、これでは逆に武装しずらく、訓練もままなりません。その ため別組織を作ることが必要になってきました。これが農兵で、加賀 藩では銃卒と呼ばれています。もちろん足軽の銃隊化すなわち弓や 和銃の洋式銃への切り替えも進めていまして、高岡や杉木、今石動 等には少数、新川には東岩瀬、他に魚津や境、などにいますが、大し た数ではありません。中心は領民を武装化し、民兵言い換えれば郷 土防衛隊の編成にありました。これが約百四十年前のことでして、皆 さんのご先祖がこの時越中国にいましたら、きっと関係しているでしょ う。

 調練場所は、今石動・小杉・杉木・高岡・伏木・放生津・氷見・魚津・ 生地・東岩瀬・泊でして、富山藩でも模倣して実施しました。また井波 や福光、富山藩の八尾などの遠方には出張所を置きました。これら に若者達がこぞって志願してくるのです。服装は陣羽織にたっつき 袴、漆塗りの三角形の扁平笠、短刀にエンフィールド銃、これは着剣 ができるイギリス制式銃で、前装式のためすぐに旧式になってしまう のですが、この時は最新式です。別に鼓隊もありますので、太鼓の 音に合わせて行進の速度を調節していたのでしょうから、結構近代的 です。なかなか格好もよく、小矢部川や庄川の所で大規模に訓練して いました。高岡銃卒は木町の浜(と呼んでいました)を颯爽と行進して います。伏木には信州からも訓練に来た者もいるようです。

 実際は異国船が襲来し、上陸して戦闘に及ぶということがなかった ため、士気の高かった高岡銃卒、これは岡本家文書で分かるのです が、それを除いてすぐ熱が冷めてしまうのですが、それでも一時的に せよ人々の郷土意識が高揚しました。それは越中国が自治都市であ り、自分達の村・町といった気持ちが強かったことが背景にあったか らでしょう。またその上に防衛までも手中にしたことで、藩士の権威の 相対的低下をも意味しています。

ロシア船の伏木侵入

 さて、先程異国船の襲来がなかったと言いましたが、実は一度危な かったことがあったのです。それは安政六年のことでして、ペリーが 来航して以来攘夷の嵐が吹き荒れ、翌年には大老井伊直弼が桜田 門外で討たれるといった時代です。伏木にロシア船が測量のため無 断侵入します。この時の詳細な報告書がありまして、中央や伏木の 図書館で見ることが出来ますが、カメラのない時代に実に生き生きと 描写されています。ここに黒船図が載っていまして、×印のついた船 です。小舟を降ろし、改所間際まで堂々とやってきて測量します。飛 脚が各地に飛び、金沢へも何回も注進していまして、高岡町奉行所 では金沢からの部隊派遣があることを考え準備を進めました。富山 藩は相当の兵力を四方等に展開しました。しかし金沢では比較的冷 静に対応し、侵略はないものと判断して部隊は送らず、御台場からの 発砲もありませんでした。これは事前に定めていた的確な情報収集 手段が機能していたからでしょう。

まとめ

 海防はやがて国内政局の中で埋もれてしまいます。元治元年の京 での甲子の変では久坂玄瑞ら長州勢を一橋慶喜や西郷吉之助など の薩摩 の軍勢等か打ち破り、追い落としました。この時加賀藩は中途半端な 態度を取り、藩主世子前田慶寧は謹慎を命ぜられました。なおこの時 には高岡の銃卒の選抜メンバー、鳥山敬次郎等が藩兵力に参加して います。

 しかし海防に燃えたこの記憶は人々の心の中に残り、やがて明治 維新以後の国民意識形成へと結びつきます。高岡では鳥山敬次郎も そうですし、堀二作にしても銃卒出身です。当時横田は郡方であった ため、高岡町奉行所では調練が出来ず、小杉にまで歩いていって受 けたのだそうです。他の郡でも後に地方政財界をリードする人材を輩 出しました。

 維新の際には加賀藩の日和見の態度がよく批判の対象にあがりま すが、前田家が将軍家と婚姻関係で結ばれていて、松平の姓が許さ れているように-この時の藩主前田斉泰もそうでして、東大の赤門で 知られています-身動きが取れず、その分三州割拠というスローガン のもとで、加賀・能登・越中の安定に努めていたのです。このことは もっと評価されてもよいでしょう。そして越中国では各地で文化が栄 え、自治が中央政局とは別に機能していたのですし、農村では農地 の交換が抽籤で、かつ地味の不公平無く、約二十年ごとに行われ ていたことも、知っておいていただきたいことです。

 

三、藩政末越中国の人々と教育

平成16年10月16日 教育文化会館 富山県民生涯学習カレッジ学遊祭

 本日はご多忙の中ご参集いただきありがとうございます。50分間ほどですが、加賀・富山藩後期の歴史の一端をお話させていただきます。

異国船の接近

 今から二百年前の文化・文政期、わが国近海に異国船が姿を見せ始め、160年ほど前嘉永頃より、加賀藩でも新川郡で沿岸防備を本格的に着手します。項目 のみ挙げますと、人夫の動員、御台場の築造--越中領では生地に臼砲3門乃至5門・伏木に和筒5門、いずれも緊急時に藏から運び出してすえることになって いて、他に放生津に台場だけ、富山藩で四方と西岩瀬間--、硝石--五箇山に限らず全領内で家の軒下を調査し、3年かけてものすごい匂を発する硝石丘を築 きます--・及び硫黄などの増産と、軍艦を動かすために石炭などの資源探査--大山町や氷見市辺りで発見され、氷見では大東亜戦争の頃まで産出していたと いうことです--、沿岸防衛兵力としての在番派遣と弓から銃への切り替え、そして銃卒の編成です。銃卒とは住民による民兵、いわば郷土防衛部隊でして、 140年ほど前の文久三年(1863)にピークを迎えます(海防が過去になる翌年元治元年より下火)。人々は大変熱心で、積極的に銃卒稽古に參加しまし た。剣付のイギリス製エンフィールド銃を用いて大隊訓練までしています。また献金も相次ぎ、国土防衛のため、全領民が意気軒昂でした。

 このことは住民が決して藩の圧政下に苦しんでいたのではないことを意味しています。確かに自然災害--地震や洪水など--とそれらを原因とする飢饉、疫 病--麻疹、疱瘡、コレラ--が発生し、火事が多発していたことは事実ですが、概して新田開発と反収の向上に成功し、竹管と木桶による上水道も施設して衛 生に努め--残念ながら砺波郡の平野部ではこれが普及していなかったため、上流で疫病が発生すると下流もやられているものの--、こういった困難を克服す るために技術を発達させる活力と知恵がありました。かつ人々には日々の生活を楽しむ心の余裕がありました。藩も領民の暮らしに配慮しています。第一越中国 は自治が行き届いた地でした。加賀藩領下で徹底され、支藩富山十万石領内でも見られます。郡方では十村(他藩の大庄屋であり代官でもある)、町では町会所 の能力を、郡や町奉行所は頼りにしていました。その自治の根幹は人々に教養があったことです。

教育の普及

 村であれ、町であれ、人々はよく学んでいました。藩には金沢に明倫堂、富山に廣徳館があって、明倫堂では町村民子弟の入学も許されていましたが、各町村 には寺子屋がほとんどの町村いたるところにあり、男児8・9歳が3~6年、女児9・10歳が約3年間通っています。寺に限らず村や町の指導層がボラン ティア的に師匠になり、自身の手書きや廣徳館の出版する教科書を用いて物の名や、地名、人物名、商用文や農用文等を通じて、読み書きを習熟させました。授 業料は寺子のうち銭を納めるのが半分--ただし金額は不定--物で納めるのが半分といった具合です。富山市や高岡市、そして立山町に多く開かれていて、ま た高岡町や戸出村には女児専門の寺子屋がありましたし、富山では藩主側室の菊園が女子教育に携わっています。進んで漢学(陽明学を含む)や国学を教える私 塾も多く存在しています。富山では臨池居(小西屋)が薬業の発展に寄与していたようです。大きなところ(数百人規模)では、師匠が寺子の中から選んだ役付 者を手足のように使い、一斉形式を交えながら教えていました。

 富山四方の寺子屋で栂野一昌の寶山堂でのある日です。朝は食事前に町内単位で集団登校して朝学習をします。定座役が机を並べ、検断役が硯、草紙、手本を 並べさせ、水を注いで墨を磨らせます。ただ磨らせるのではなく、その間に名頭や村名を読ませます。やがて調べ役が「墨上げよ」と号令すると皆は手本を開い て草紙に書き出します。朝食の時間が来ると、早<登校した町内から先に戻ることになっていて、目付役が「二番町いかっしゃい」「一番町いかっしゃ い」と呼び立てます。朝食が終わって再登校すると、師匠が「師匠はん」「シーシー」の声の中で登場し、調べ役が無駄な食物や不用品を持っていないかを調べ ます。そして授業が始まり、大学・論語・女大学の読みを習う者は前に出て教わリ、手習いの者は長番が回り訂正したり、行儀を直します。昼食の時間になる と、朝と同様帰宅しますが、夏には水判という判を腕に押して帰す。それは水遊びをしたらすぐ分かるようにするためです。午後に戻ると入口の庭で、長番が判 調べをし、消えていると帳面に付けられました。午後の授業は清書が中心です。書いたら師匠の所へ持って行き直されます。そこで「上々也」「上々見事也」 「大上々見事也」の評価であれぱ次へ進むことができました。山田紙を六折り(商売往来や消息住来は八折り)にし、端に前の手本の末の字を書き、下に姓名、 裏に月日を記して提出すると、師匠はこれに自筆で手本を書いて明朝に渡しました。清書が終わると次は九九の練習になります。師匠か取締役が主唱し、一同が 和して唱えます。一通り終わると長番が「しまわっしゃいやー」と発声し、道具を文庫に入れて、机とともに周りに積み上げます。ここで女子は礼をして退出、 男子は机を背にして座り反省会をします。中央に師匠が座り、両側に取締と長番が並んで、目付はその日に悪いことをした者がいたら帳面を差し出しました。こ れを見た師匠は、灸や尻叩きなど罰を与えることにします。この後謡曲を習って、挨拶をして帰宅となりました。この師匠は目が不自由であったにもかかわら ず、それをまったく感じさせない指導力を発揮しています。父親が郡奉行と住民の利益をめぐって対立し、抗議の意味で切腹した人物ですので、親譲りの指導力 なのでしょう。

 なお、富山町では廣徳館の教官や藩士、魚津、今石動では町奉行所足軽も参画しています。

 また算術・珠算專門の塾が別にあり、地方・郡方では測量術--土地開発や所有地を定期的に交換して田畑を均一化するのに用います--こういった技術の発 展が見られます。城端の西村太冲や放生津の石黒信由などは各地に門人を持ち、天体観測や時制--太冲はそれまでの一日13刻みの時刻を12刻みに変えよう と努めるものの、うまく定着しませんでした--、そして暦の改訂も行いました。富山町では松本武太夫や関流の中田高寛、高木広当といった算術家達を輩出 し、和算の理論を発展させました。今も各地に算額を見ることが出来ます。

 壮年に達してからも学問を継続する人は少なくなく、高岡町では町奉行所の意を受け、町人出資の郷学が設けられ、儒学や石門心学を学んでいます。心学は藩 も奨励していて、富山藩は文政三年(1820)に円隆寺で講座を開き、町人に聴講するよう達しを出しています。心学が商人に与えた影響力は甚大でした。

 学ぶことを通じ、人々に高い倫理観が根付き、商売道徳が向上し、普通の人々も俳句や漢詩、茶の湯、華道など風雅を楽しむようになります。その上歴史感覚 を身につけ、長期的な視野をも持ちえました。伏木の藤井能三は、寄留していた水戸藩の朱子学者青山勇から時局の動きや時代の展望を見ることの大切さを学 び、この後郷土の発展に尽くしました。文化の成熟こそが、人々の心の中に郷土愛を醸成し、自治意識を強化せしめたのでありましょう。

蘭学の流入

 またこの頃、西洋の技術が積極的に取り入れられています。「蘭学」と一括りにしてしまいがちですが、その中には医学、測量法などがあり、輸入本に使われ ている言葉がオランダ語であるだけで、著者がオランダ人とは限りません。やがて幕末の動乱期には軍事分野に採用されていきます。

 越中国でも学ぶ人は多く、医学を長崎だけでなく京や大坂、江戸等の蘭方医に就く若者が相次ぎ、やがて帰郷後各地で従来の手法に馴染ませながら、根付かせ ていきます。それは西洋医学が必ずしも進んでいたわけではないからでもあります。種痘の普及には両藩挙げて取り組み、富山藩では蘭方医がその後の北越の戦 いでも活躍しています。測量の技術に関しても、長崎や江戸を通じて入手でき、器具の改良に応用されました。

 海防を全うするため、加賀藩では高岡町奉行を長く勤めた大橋作之進などが中心になり、壯猶館という西洋軍事の研究と訓練機関を設置し、ここへ上市出身で 長崎に医学と高島流砲術を学んだ黒川良安や高岡の蘭方医で化学者である高峰精一が赴任し、大いに成果を挙げます。また高岡の金屋鋳物師集団には、銃砲や弾 の製造を依頼しました。富山藩でも加賀藩をモデルとしながら、江戸にも留学して高島流砲術を積極的に導入し、廣徳館を使って訓練を行っています。和流砲 術家の中にも学ぶものが出るほど、富山藩は熱心でした。

 したがいまして、藩政末には攘夷意識があるにもかかわらず、すでに西洋の文明は身近なものとなっていました。この事実に苦悩する長崎言定という高岡町医 者もいますが、文明開化は明治元年の瞬間に急に始まったわけではないのです。

 この頃には中央で出世していた越中出身者もいます。将軍家御殿医坪井信良--徳川家茂と徳川慶喜に仕え、大坂城を脱出して開陽で江戸へ行く際も、そして その後も静岡まで従うことになるのですが--高岡の医者佐渡家の出身で、実家へ逐一政治情勢を伝え、地元ではこの書簡をもとに勉強会が開かれています。

まとめ

 以上お話しましたように、越中国の人々には教養があり、成熟した文化があり、それらを基盤に自治を行っていました。こういった先人の歴史を、現在同じ地 に生きる私たちが改めて振り返ることで得るものは決して少なくないでしょう。また次の世代にも語り継いでいかねばなりません。

 本日お集まりいただいた皆様のご理解に、今日の話が少しでもお役に立てたなら、私にとっても幸いであります。どうもありがとうございました。

 

四、藩末の富山藩兵について

平成24年10月6日 富山県教育文化会館

はじめに

 富山藩は加賀藩の分藩として10万石を領していたが、財政面では慢性的な赤字に苦しめられ、士卒八千人程度(明治初年「藩制一覧表」には士族男3,228人・卒族男4,876人)にすぎず、役職の兼任が多く、射手や異風(鉄砲)も数人に過ぎなかった。

 明暦元(1655)年の軍役は騎馬百七十騎・鉄炮三百五十挺・弓六十張・鑓百五十本・旗二十本であり、これまで富山藩が領外へ出兵したことは延宝9 (1681)年6月の越後国高田城請取があるのみで、その時には騎馬百六十五騎・鉄炮二百三十挺・弓二十張・鑓百本・人足を含め四千三百五十人の陣容で あった。飛騨国高山の一揆鎮定のため飛越国境まで出動した際には、先手に騎馬三十二人(内医者二人)・弓五張・鉄炮十五挺・長柄二十本・大筒七挺・人数五 百人余、二の手に騎馬三十六騎・弓 十五張・鉄炮二十挺・長柄二十本・大筒五挺・人数九百人が動員されている。

 ただし本格的な戦闘は念頭に無く、ましてや対外戦闘は考慮の外であったので、ロシアの北方領土への侵略を防ぐため文化5(1808)年12月に幕府から 出兵準備を命ぜられた際には装備が無く、出兵人数を絞り込んで五百四十八人を派兵することとするが運搬手段が無い。加賀藩から船八艘を借りて人と食糧や武 具(大炮八挺、鉄炮六十一挺、弓二十五挺、長柄鑓 三十本、手木三十本、持鑓・ 手鑓・薙刀六十二本、大船印竿八本、力杖五本、幕三十幕、玉薬箱二荷、矢箱二荷、諸道具長持一指)を積載する手配をするが、出兵費用を計算するととても藩 財政では対応できないことが判明する(金七千五百両と銀二百十一貫百目)。そこで文政2(1819)年8月に費用調達のため町方へ銭札二十万貫文を申し付 けた。待機命令解除後の文政7(1824)年から天保4(1833)年までの富山藩平均収支は、家中支給分を除き、 歳入が収入米二万四七六二石・運上高一万二八四両、歳出が江戸と富山で三万七五八両である。宗藩である加賀藩や領内外商人等からの借財は三十万両に達して いる。

 その一方で、富山藩は事件の調査を通じて蝦夷守備隊がロシア側の圧倒的な火力に全く抵抗できなかった事実を聞き、弓・刀はもちろん、火縄銃や大筒での防 御が不可能である事を知り、藩主前田利幹自ら酒井流等の砲術研究と試射に力を入る。やがて高島秋帆により西洋火術が紹介されると、下曾根信敦門下の松下健 作正綱を招き、藩士・砲術関係者を入門させた。更に直接江戸で下曾根家に学ぶ藩士も出てくる。

 

1 高島流砲術の導入

①従来の砲術

 富山藩におけるこれまでの砲術には、安永の頃に加賀藩の足軽岩崎彌藤太によりもたらされた豊島流砲術があったが、その他にも次のような流派があった(「武技略伝」「富山藩士由緒書」)。

酒井流

 開祖は大聖寺藩酒井怡雲斎である。富山藩9代藩主前田利幹は、文化2(1805)年6月今村織衛重邦(兄は深見流才許の今村太郎兵衛重慶)を酒井定賢に 入門させ、自らも同8(1811)年9月に酒井が来富した際に、大筒打形・早合打形・操引操掛の備立・足軽立五段の備打形・舩中鉄炮・石火矢・焙烙玉・火 矢・地雷火などの皆伝を得た。

 この流派は文化・文政にかけ3匁5分筒や拾匁筒・30目筒などを用いて丁附(演習)を行い、百中であったという。

今萬流(深見流)

 砲術家今村市郎兵衛重次は、延宝7(1679)年に富山藩へ60俵で招かれ、代々砲術が受け継がれた。今村太郎兵衛重慶は深見流才許ともあり、安永8 (1779)年の丁附で100目筒を用い15町(1町は約109m.) 、500目筒で25町の距離を幕入りさせている。子息宗平も50目筒で6町、100目筒で8町及び50目・100目の棒火矢を3町から5町で幕入りさせた

稻留流

 開祖は稲留伊賀守(稻富伊賀祐直と同一人物か)。石火矢に通じた幕臣渡辺佐次右衛門の弟の七郎左衛門重勝は稻留流を学び、延宝3(1675)年9月に江 戸で富山藩に60俵で招かれ、代々流派を受け継いだ。婿養子喜八郎こと七郎左衛門重秀は、享保2(1717)年の丁附で、300目・200目・100目の 各筒を用いた。

不動流

 開祖は紀伊国半田五郎左衛門政利。炮術修行中の藩士半田甚左衛門景照か学んで、貞享2(1685)年に帰藩してから代々伝えた。安政3(1856)年に豊太夫は江戸で藩主前田利聲の御前で、100目筒を百中させている。

大仙流

 飛騨国瀬田甚内常重が享保年間に富山へ招かれ丁附を行う。大島助右衛門(泉州堺の細工人で、同時期に招かれ鑄筒の方法を教え金具を製した)、森安左衛門(足軽で助右衛門下で鉄炮台師となる)や河上兵治秀直を通して流布した。

安見流

 加賀藩安見隠岐守元勝の門人で日比野小兵衛が、富山藩初代前田利次に随い富山へ来て、元禄年中に砲術を教えた。寛文頃に楢林小助や小柴貞義等へ伝わっている。

②高島流の採用

 和流筒全盛の富山藩で高島流が採用される背景には、加賀藩の存在と影響力がある。高島流とは西洋砲術を研究した長崎の高島秋帆により天保10(1839)年頃より唱えられた流派であり、同12年5月徳丸が原での操練を経て幕府が採用するところとなった。

 この操練に立ち会っていた幕府鉄炮方下曾根信敦はその後秋帆に入門し、幕府より高島流炮術指南の許可を受ける。その門人に水野忠邦家臣松下壽水の子息で 松下健作正綱がいた。浪人の身分であったが、弘化3(1846)年に下職人を連れ江戸から金沢へ招かれ、藩命で9月3日に火矢方の小川群五郎と小川七郎左 衛門が入門している(「成瀬正敦日記」)。翌年9月皆伝し、25日町奉行を通じ、金30両と生絹3疋、下職人の鑄物師3人と鍛冶方5人へも一人3分ずつ渡 され、11月12日改めて礼を述べられた上で、金3両と染絹2端が贈答された(「大炮御用留」)。

 これを富山藩の塩方係田上兵助が見分し、帰藩後に頭役掘田貫兵衛之道へ報告したところから松下健作を正式に藩が招聘し、田上兵助や金岡彦一郎勝任(中条 流剣術・民弥流居合)と金岡湊勝亮の兄弟などが入門した(「武技略傳」)。以後、直接下曾根家に入門したり、金沢の西洋軍事研究機関である壮猶館で高島流 を学ぶ藩士が続出する。和流稻留流直伝渡辺順三郎尚義は、江戸で下曾根家に入門し、武州大森大炮稽古場や荒山などでの調練にも随っている。このように藩内 には高島流が急速に普及していった。

③炮術諸流の競演

 藩政後期には盛んに炮術各流派の大筒稽古が行われている。嘉永以降でも次の通りである(『町吟味所御触書』)。

   時期        流派       場所

嘉永元年11月19,20日 稻留流と不動流   塩野

同2年3月30日     大仙流       大久保野

    7月8,9日     稻留流、不動流   同上

同5年6月18日              牛嶋川原

    9月28日              同上

同7年5月8日、11日、17日 旗本調練    御廓中

     5月26日~30日  今村音一    大久保野

       6月4日~6日   渡辺順三郎    同上

       9月22,23日      同上     同上

安政3年4月~7月6の日 高嶋流   布瀬川原

    8月~9月 6の日 同上   同上  

    11月18,19日   同上   同上

同4年6月27,28日   同上   同上

   8月8~12日  酒井流    同上

       18,19日  高嶋流   同上

      21~24日  稻留流   同上

同5年3月~9月  高嶋流   布瀬川原

       7月   牛嶋川原調練

      10月26,27日   高嶋流   布瀬川原

同6年3月15日   酒井流   同上

同7年3月~9月 7の日 高嶋流   牛島川原

万延元年4月2日   同上   布瀬川原

    10月7,8日  同上   同上

文久元年9月27日   調練   磯部川原

元治2年2月26,28日 不動流   布瀬川原

 欠けている年もあるので実際は更に多かったであろう。諸流を競演させ、試したように思われる。すでに不動流6代半田甚左衛門景統と7代同豊太夫景範は、 嘉永元年に松下健作に入門し、11月に免許を得ていた(「高嶋流大炮免許状」)。このことから高島流が既往の砲術へも浸透し、主流になりつつあることが分 かる。

④西洋砲の鋳造技術

 富山藩の本格的な砲筒鋳造は嘉永以降である。松下健作に伝習を受けた半田甚左衛門と、嘉永2(1849)年に江戸で下曾根信敦(幕府鉄砲方、高島秋帆に 学び洋兵塾「膺懲館」を開く)に学んだ異風組渡辺順三郎義尚が砲筒鋳造御用掛となり、大筒を製造した。大久保野や布瀬川原での試打丁付で高島流が急増した のはそのためであり、千石町に高島流射的場を設置する(『富山市史』第一巻)。また吉田元鶴有宣は金沢の壮猶館で高島流を見學し、帰藩の後に大小砲筒鋳造 方に就任した。

 安政6(1859)年4月24日加賀藩領射水郡伏木浦に、ロシア船が測量のため無通告で進入する事件が発生し、富山藩でも婦負郡四方浦を警戒するため、 翌日未明に馬廻組頭西尾左次馬の隊と異風組渡辺義尚と金岡勝亮が與外足軽を率いて出動している(同上、御馬廻組一組・御先筒足軽二組、医師を含め百九十九 人と大筒四門)。長福寺に本陣を構え、二十七日昼まで厳重な警備を行った(完全に退去したのは二十九日)。二十五日には西猪谷と切詰へも各々新番御歩行一 人・御先手足軽十人ずつを派遣し、五月一日まで詰めさせている。

 また火薬・弾薬製造のため慶応2(1866)年城内西ノ丸に火薬製造所、新川郡黒瀬村と婦負郡井田村に水車場、城下町西南の長柄町端の塩硝蔵を利用して弾薬製造所2棟を建設し、金岡勝亮と戸谷鏗三郎が担当した(同上)。

野積谷・細入村・山田谷での硝石製造促進のため、文久2年3月より技術指導を開始した。また家中・町・郡方の床下土・炬燵・炉などのなどの木灰を取り集めるよう申し渡し、山村に硝石製造を奨励した

⑤富山藩四方台場

 富山藩では安政元年に西岩瀬と四方間に「海固倉」を作り、米三百石を積み込んで異国船襲来に備えていたが、同6年4月24日に発生したロシア船の伏木侵 入は富山藩内にも大きな衝撃を与え、苦しい藩財政をやり繰りしての御台場建設を決断した。急ぎ文久元年(1861)7月に四方で測量を開始し、同3年四 方・西岩瀬間に設置をみる。また、付随設備として海防御役所と見張所を設営し、桜台の高台で常時海上監視にあたりつつ、川原での鉄砲稽古を幾度も重ね、防 衛力の強化に努めた。

 

2 藩兵の西洋化

①藩校廣徳館の軍事化

 このような高島流の急速な普及を後押ししたのは家老の山田嘉膳であった。嘉膳は江戸浅草で商家の次男に生まれ、柳川藩士の養子を経て富山藩士の山田純武 の養子になった、と伝えられる人物で、出世を重ねて安政6年にはついに家老職にまで上り詰める。そして苦しい藩財政を支えながら高島流砲術を採用し、兵備 の充実を推進した。

 しかし嘉膳の強引な手法は反対派を形成させ、元治元年7月1日三の丸で島田勝摩により暗殺されてしまう。それでも兵備の西洋化方針は継続され、慶応元年 に藩校廣徳館で砲術稽古を強化した。それは同3年6月の「文武奨励につき申渡覚書」(前田文書「学校御規則同沿革」)ではっきりと打ち出され、同年の「廣 徳館稽古所武芸諸流覚書」によると、学校内北之稽古所での練兵には高島流が優先されていたことが分かる。また「廣徳館教練所役向人名覚書」には、高嶋流師 範渡辺順三郎(御筒奉行・製薬奉行)、同差引役金岡湊、田上兵助などが名を連ねている。その他にも、殿岡北海(後に風砲の発明やガラス製造をする)や書家 市川家直系の市川三亥など、高島秋帆や江川太郎左衛門に直接教えを請う藩士もいた。

②西洋式藩兵の編成

 富山藩では藩兵の中核を担うべき人材の育成のため、慶応2年12月11日家中の嫡子・二・三男から精選した新調組を編成する。日々教練所で大小砲の訓練 を受け、緊急時には御馬廻組より前に出動し、江戸警衛にも派遣されることを目的とする。当初は才許7人と90人(うち病死1人)で発足し、同3年中に17 人(うち病死1人)、同4年中21人を組み込み(篠川屯「自分手控」慶応2年~明治2年1月)、砲術稽古に励んだ。明治2年より本格的な西洋式兵力の建設 に乗り出した藩は新調組を警撃隊と改め、中心的役割を与えた。

 同4年4月に藩兵4小隊・158人は北越に出兵し、鯨波から越後へと兵を進める。この時の小隊長には、高島流を修得した金岡勝亮も任じられ、編制はオラ ンダ式、装備はイギリス式のようである(『富山市史』)。5月の寺泊における海戦には参加しなかったが、8月23日の福島村での戦闘では戦死者も出す。そ の一人で五番隊司令士森田三郎直寛は、元治元年に藩命で金沢の壮猶館に入り、砲術を修めていた(「森田文書」)。

  越後新発田御本営会議所への届によれば、富山藩の配備は次のようであった。

蘭式三小隊 長岡表出張 隊長 佐々左盛・菊地文作・中村多久馬

 目付や司令士等役々五十四人 戦兵百二十六人 小荷駄等役々四十八人 侍分家来や小者夫卒百五十二人

蘭式一小隊と一砲門 栃尾出張 隊長 大房善太左衛門

 目付や司令士等役々十七人 戦兵四十八人 小荷駄等役々十六人 侍分家来や小者夫卒六十五人

新発田表出張

 軍事方等役々八人 侍分家来や小者夫卒六人 一砲門本家からの加勢隊へ附属

庄内口中浜出張

  目付等役々六人 灯方等十人 侍分家来夫卒二十二人

総人数五百八十八人

外に庄内口中浜出張 蘭式二小隊 本家より加勢隊

  十月七日に新発田の本営に届けた兵力は、次の通り。

蘭式六小隊 閏四月二十一日越後高田へ到着 隊長 佐々左盛・菊地文作・中村多久馬

 目付や司令士等役々五十四人 戦兵百二十六人 小荷駄等役々四十八人 侍分家来三十一人 小者夫卒百二十一人 三小隊は七月下旬より長岡巡邏

一小隊・一砲門 隊長 大房善太左衛門

 目付や司令士等役々二十九人 戦兵四十八人 小荷駄等役々十六人 侍分家来十一人 小者夫卒五十二人 会津郡野尻辺へ出張、十月六日五十公野まで繰戻る。

一砲門

 目付等役々六人 大炮方戦兵十人 侍分家来二人 小者夫卒二十二人 庄内口雷村辺へ出張、本家より御加勢隊に附属。

新発田在陣

 軍事方役々八人 侍分家来三人 小者夫卒四人

柏崎在陣

 軍事方役々四人 侍分家来二人 小者夫卒三人

総人数五百九十四人

外に本家より蘭式二小隊が庄内へ出張。

 出兵した富山藩兵の構成をみると、新番御徒組と町人から募集した新兵で銃隊・炮隊・手槍隊・弾薬隊・小荷駄組を編制している。だが集まったばかりで訓練 されていない兵の練度は高くなく、7月に油田西山峠で激闘中の加賀藩兵とは対照的に退き、戦後に隊長の鈴木重知と渡瀬守馬、外二十名程閉門や減知処分を受 けたという。それでも長岡で激闘の後に大房隊は南会津へと進撃する。

 明治2年1月職務改制と新人事を発表し、大参事に戸田青海方義(41歳)と蟹江大愚哉基徳(42歳)、権大参事に入江事(38歳)と林太仲(32歳)が 就任すると、藩庁職員の制服を洋式と決め、諸改革を断行した(篠川屯「自分手控」明治2年正月~3年5月)。登用された藩士の中には、かつて山田嘉膳暗殺 に荷担した者も多くいた。もはや西洋式の導入については一致した藩論であったのである。その際に砲術諸流の名称を従来の古流・新流(高島流のこと)という 分類をやめ、単に炮術とのみ称えることにする。また藩が預かった降伏者のうち森本弘策(千代田艦を指揮)を英学教師、佐野嘉内(人物不詳)を馬術の教師に 採用した。12月には常備隊を組織して砲術稽古を命じた。

 やがて藩内は林太仲を中心とする西欧流改革派のもとで運営され、軍制の洋装化や議会制の導入(2月5日議事の制で上下両院からなる藩議院を設立、各々一 人ずつ幹事を入札で選出し、議長から幹事・議員へ課題が渡され審議、幹事一人は農・町人から選出、秋に備荒救助策を協議、翌年5月に藩議院規則を制定)、 合寺等を断行する。林太仲忠敏(天保10年頃~大正5年1月)は百三十石、御馬廻頭並広徳館聞番、御勝手方、学校奉行、射手・異風・御医者支配などを務 め、慶応元年長崎へ遊学し、広沢真臣や大木喬任と交わる。明治2年に権大参事、翌年九月大参事に就任し、合寺を断行するものの、反対が多く同4年に免職と なった。翌年奈良県視学、文部省大視学になるが、同6年に辞職し、東京で隠居した。養子が高岡町医者長崎言定の子で林忠正(浮世絵や銅器を海外に紹介した 人物)、太仲の弟が大審院判事磯部四郎(民法典論争のフランス派)である。

 常備隊は4大隊編制で、青龍(大隊長富田直照・30歳)・朱雀(花木親信・36歳)を医者組以上無役まで、百虎(不破光直・22歳)・玄武(近藤完・ 39歳)を御細工人以上で組織し、大隊長・小隊長・半隊長・分隊長・右嚮導・嚮導・王旗役・隊旗役・旗押等といった役職がある。その他に炮大隊(堀田之 章・25歳)と楽隊を編成する。ただし大隊とは名ばかりで、各隊には五十人から七十人程度と士官が附属する規模に過ぎない(『富山藩侍帳』)。役には元新 調組の藩士を付けた。翌3年1月に城下丸の内を開墾し、練兵所を建てた。

 明治3年8月歩兵でフランス式「護衛イスカトロン(大隊)」を士族で組み立て、9月にイギリス式歩兵小隊(吉田元鶴)を卒族で組み立てる。10月に林太 仲が大参事として藩政一切を掌握し、火薬製造所と銃炮御筒製造所を柳町正立寺に設け、広徳館を二番町に移して藩学校と改め、藩兵を再編して常備大隊を組織 して10小隊編制をとり、ここに楽隊と土工兵を付属させた(『越中史料』、「武技略伝」)。12月には陪臣を士族に組み込み卒族を士族の組に付属させなが ら砲術稽古に励むよう命じている。

③新調組と藩兵の教練

 新調組は慶応2年12月11日に設置された。同4年閏4月に新調組規則が申し渡され、5月に陣中法度が制定される。また新番御徒に砲術稽古を命じ、さらに6月15日御手先廻組以上の44歳以下にも、従来の仕事に優先して砲術稽古に励むよう達した。

 翌明治2年1月15日に教練所を廃止して砲術稽古を藩学校附とし、器械弾薬方を御武具器械方御用附属とする。3月1日越後へ出兵していた徴兵が帰り、8日に 中川勝弥か新兵教官に就任した。9月に新調組を1組にまとめ、10月25日には組名をやめて、警撃隊及び大炮護衛隊と改称し、炮術振退稽古規則を制定する など、軍紀の確保に努めている。

 3年1月28日に斥候役などの隊長5役を公選し、4年5月20日隊監を任命した。6月24日大炮護衛隊を廃止し、8月9日には1大隊10小隊を8小隊編 制に減員し、10月2日大炮方屯所を正式に陸軍屯所と併せる。また御門などの警備は藩兵隊で担当することに決まり、同月中に軍帽と短銃が各々に渡された。 これは従来の陣羽織とたっつき袴姿からの転換であった。また同時期に喇叭方や輜重方の役々・伍長などが任命されている。

④銃卒の編成

 加賀藩における銃卒(農兵)の編成に倣い、富山藩においても文久3年に銃卒が編成された。10月に御郡奉行を通じて各十村に人選を指示し、翌月に十村九 人を銃卒稽古取締役に任じて、四十人の従卒を有力農民子弟により発足させる(『熊野郷土史』)。城下神通川原(文久元年夏に安野屋村神通川縁に調練場を設 営)や八尾・四方などの遠隔地にも仮稽古所を設け(長沢村の各願寺を仮稽古所にすること及び城下近在の者及び八尾・四方近在の者は各々近くに集結させてほ しい旨請願、内山文書「御用留」)、同年中には城下で調練が行われている(「栗山文書「諸事御用留帳」)。なお元治2年には藩士との間にトラブルがあった ようだが(『富山県史』史料編Ⅴ)、幕府歩兵のような粗暴な振る舞いをしたとの記録は無い。

 海防気運が冷めてしまった元治元年以降の銃卒募集は、富山藩でも加賀藩同様欠席が目立ち、代人を出すよう指示する等維持するのに困難を極めたが、北越出 兵にあたり、戸谷鏗三郎は出兵方に付き藩と加賀藩に新兵募集を再三建白していた。多くを町人から募集し、銃卒として出征させるという内容である(古谷常蔵 編『富山郷土史研究資料~屑籠から』上巻、昭和七年)。

町人より募集することについて、幕府では歩兵・砲兵を町人や御領農民で構成している。中には無頼の徒も入り素行が悪いが、戦場では勇敢であったと伝わる。 加賀藩では町農民による海防のため訓練した銃卒があり、慶応3年1月領内に兵賦を課すことを決め、2月に十七・八から四十歳まで一万ないしは一万五千人を 後述の通り一人扶持の給銀で動員することを企図、12月頃から銃卒の中から選抜者を足軽として正規兵に組み込んでいる。富山藩は加賀藩の指導下にあったこ とから、幕府の方法ではなく、加賀藩の方法を採っていたのではないか。北越に出兵した多くは足軽身分であり、慶応4年3月には農民からの応募を始めてい る。これは村役人からの推薦者を藩の馬場に集めて競走させ一番旗を取った者を採用する、という方法であった。4月14日に長岡へ4小隊編制で出兵する。

 明治4年には一番隊から七番隊まで編成され、正式に「農兵」と呼称されていたようである。5月28日に戎服・6月12日に鉄砲が下付される(篠山屯「諸 事手控」明治4・5年)だが、一週間後の19日に突然廃止が告げられた(栗山文書「諸事御用留帳」)。最大の理由は人件費にあり、准中尉から軍曹まで金7 両ずつ、伍長から兵士まで金4両ずつ、支給する必要があったからである。

⑤軍船について

 富山藩が天保14年9月23日付で幕府に届け出た沿岸防備の中に「関船櫓五艘・小早船三十一艘・早船四艘」とあるが、八百石積規模の帆前船建造は嘉永以 降のことである。この船を御手船と呼び、まず四艘を能登国七尾で建造した。建造費用は売薬商人からの諸役銀と薬種問屋からの貸与で賄った。この御手船は付 属の小船と共に西岩瀬と四方に置かれ、八百石積の帆船であったが、佐渡・越後・坂田・秋田・松前や下関・長崎・大坂まで売薬荷を運送し、塩・瀬戸物・砂 糖・唐物や能登の材木・石材・薪炭を移入、八尾の干柿や飛騨の堅栗等を 移出する(戦時には各々大筒三門を載せる)。塩方浜方総縮酒井松之助が御手船係りを兼任し、船頭の蛯谷長次郎や八町屋八郎平・四十物屋伊左衛門等と水主で 七尾から富山まで運行、伝馬船を降ろして舟歌を唄いながら神通川を遡り、千歳御殿で前田利保に閲した。これ以後毎年御手船帰着時の恒例行事となったとい う。安政年に記された「富山表風説書」に、御手船は千石積以下九艘で、一万二千四百石の廻米に使用され、四方町の大泊屋勘吉が運行して大坂へ運んだ帰り、 蝋・鉄・肥料を買って戻り販売するが、物価が騰貴したとある。文久・元治頃には十艘に増やし、平時には藩の運送・通商に使用しているが、異変時には一艘に つき大筒三門を据え付け運用するものとされ、北越戦の時には大いに役立ったという。

 御手船の担当者についての詳細は不明であるが、文久元年7月四方で御台場用地を検地した際の休息所担当者に、長江屋七兵衛・四十物屋助三郎・八町屋友蔵・蛯屋長三郎、とある。

 酒井松之助の父万治郎(二十俵)は天保頃に塩方調理役と西岩瀬・四方両宿横目を兼任した。松之助は安政7年に21歳御徒組・二十俵、明治2年の武鑑に31歳西岩瀬四方横目とある酒井万吾(二十俵)と同一か。

洋船は財政上建造できなかったことに危倶を抱いた藩士も少なからずいたようで、慶応4年正月長崎にいた林太仲はポルトガル商人から小型の洋式帆船と銃を買い付け、これに乗って四方港に入港、藩へ海防を献言したとも伝わっているが、詳細は分からない。

 

廃藩後の富山藩兵~結びに代えて~

 自主財源に乏しい富山藩では、宗藩から借款を受けて財政を維持していた。その額安政4年現在で金一万九百五十両・銀六匁三分九厘三毛・米千四百二十五 石、返済を迫られても履行は不可能であった。そのためこの年3月に宗藩の介入を招いて藩主前田利聲の隠居が命じられ、責任を感じていた家老の富田兵部は4 月23日自刃する。元藩主の利保が返り咲くものの、10月より宗藩から横目生駒権兵衛、家老津田内蔵助(その後山崎庄兵衛、横山蔵人、青山将監、横山外 記)が派遣され、同6年11月に宗藩九男稠松(三歳、後の前田利同)を藩主に迎えて直接管理下に置く。万延元年に宗藩より毎年五千石宛都合三十五両の助成 が決まり、文久元年4月には民生も砺波郡十村荒木平助と射水郡十村折橋九郎兵衛の指導下に入った。

 このような直接統治は翌年まで続き、8月家老が帰藩(以後も毎年一・二度見回る)し、10月には十村も引き揚げた。しかし藩内改革をめぐる対立や誤解は元治元年8月に家老山田嘉膳の暗殺にまで発展してしまう。

 さて、明治4年8月時点での藩債は米九千三百一石・金四十三万九千百二十八両・銀九千百三十六貫・銭二千四百三十二貫・永銭二百三十八文であったが、宗藩の介入もあってかかなり改善を見せている。

弘化元年から慶応3年分 六万八千四十円八十五銭八厘

明治元年から同5年分 二千三百十六円九十二銭三厘

 藩兵は明治3年4月時点で、歩兵2大隊半を1小隊40人、1大隊8小隊で編制、砲兵1大隊を砲8門・80人で編制する。いずれも三司官等は員外である。 また大砲弾薬は各200発ずつ、小銃は筋入900挺と弾薬各500発ずつ備える(『富山県史』史料編Ⅵ近代上)。なお、金沢藩の越中領には、明治3年常備 兵を高岡に2小隊と大砲2門・輜重方を計211人、魚津に1小隊と大砲1門・輜重方を計106人置くことにしていた(『越中史料』第3巻)。

 同年10月の編制では、大隊長(権少参事の森曦高)・右教頭と左教頭(大属)・教佐(権大属)が一人ずつ、小隊長(権大属)が十人、半隊長(少属)が十 人、分隊長(少属)が十人、?仕官(少属)二人、裨官長(権少属)一人、嚮導(権少属)十人、鼓長(央生)一人、?裨官(同)二人、属裨官(庁掌)四人、 押伍裨官(同)が各小隊に四人、鼓補長(同)一人、?押(伍長)一人、土工兵(同)一人、喇叭手(同)二人、鼓手(同)二人、小隊ごとに伍長を配属(一番 ~四番八人、五・六番六人、七番七人、八番八人、九番七人、十番八人)、弾薬士(伍長)と喇叭手(同)を各小隊に一人ずつ、となっている(『越中史 料』)。

 翌年1月に東枡形内で寄宿所が落成、中央を食堂(牛肉を出したと伝う)、左右の両翼二棟を兵の居室とする。2月8日にはイギリス式の小隊を大隊に組み替えた。

 藩兵は9月の廃藩後も県兵として継承され、全6小隊を准中尉以上が率い、下等士官には権曹長・軍曹・伍長がいた。また土工兵という語も見受けられる。 12月に解隊が決まったときには、歩兵6小隊(1小隊は80人で、イギリス式)・士官53人・兵卒480人・合図卒18人、砲兵1隊(フランス式)・士官 18人・兵卒86人・合図卒4人、予備兵320人といった陣容であった。5年正月旧藩兵は鎮台に合流している。

 これまで概観した所では、従来和流を研鑚していた富山藩の砲術が、高島流を目の当たりにして急速に導入を図り、また藩士達にもそれほど受け入れることに 抵抗がなく、むしろ和流砲術を下地に、その上で西洋砲術を応用発展させていったようにも見受けられる。廃藩置県の後に東京鎮台へ送付された銃器の目録は、 各種の西洋兵器で占められていた(『富山県史』史料編Ⅵ)。

第 三章 越 中国の蘭学事始

一、越中国の人々と蘭学~藩政末高岡蘭医の 活躍と時事研究~

平成17年1月30日 ウィングウィング高岡5階 市民大学たかおか学遊塾交流会 

蘭方医の輩出

 越中国では蘭学、とりわけ蘭方医を相当数輩出しています。富山藩では、 財政難からリストラを進めながら、一方では優秀な人材を全国からスカウトしますが、その中に杏一洞、茂野一庵などの蘭方医がいまして、富山における蘭方の 礎を作りました。明治維新頃には蘭方、西洋医術が中心で、種痘を藩挙げて推進し、戊辰の戦いにも従軍しています。放石荘安安義は福島村で任務遂行中従卒藤 次郎ととも戦死し、富山県初の靖国神社合祀者となりました。

 多くは町医者になって、町・農民に信頼されていきます。加賀藩領であっ たこの高岡町などは、彼等の活躍の場でした。長崎家、佐渡家、高峰家などが有名ですね。疫病流行時には、奉行所・町会所の負担で無料診療をするなど、頼ら れる存在でした。

 蘭学を志す人たちは、長崎などで学びます。ただ決して和漢方が劣ってい たのではなく、和は清潔な病室と養生を専らとし、蘭方は外科手術の技術、産婦人科で優れていた、という点から、蘭方医は両者のよい所取りをしていました。 それだから評判も上がったのでしょう。

 文化・文政、19世紀以降は、江戸・大坂・京などの名高い蘭方医、例え ば小石家の究理堂や華岡青洲と弟の鹿城(ろくじょう)などに就いて学ぶ若者が、次々と出ました。特に高岡からは、京の小石家に学んだ人が多く(約10 人)、高岡の蘭学の基礎を作った長崎、上子、片山、土肥、佐渡、高峰などの諸氏がこぞって入門しています。

究理堂 小石家、萩野家、済世館 賀川家、素診館 小森桃塢、百々家、水 原三折、時習堂 廣瀬元恭、読書室 山本家、適々斎塾 緒方洪庵、迎翠堂 土生玄碩、安懷堂 日習堂 坪井信道、芝蘭堂 大槻玄沢、蘭聲同 吉田長淑、順 天堂 佐藤家、春林軒 華岡青洲、合水堂 華岡鹿城、青嚢堂 吉雄権之助

山本読書室

 今日はそういった人々で、これまで高岡町の関連でもあまり語られること の多くなかったお話をしましょう。

 高岡の通り町に茶木屋日下家がありました。祖先は朝倉教景の次男小右衛 門榮景(~慶長14年)で、幼いときに養子に出され、永禄13年の姉川の合戦に際して、前田利家に従いました。この辺りで朝倉の旧姓日下部にちなんで、日 下を名乘ったようです。利家の茶の湯の相手をしていたそうで、晩年に高岡に住みます。その養子の右衛門正栄(まさよし)は、妻が富山の茶ノ木屋中田家の出 身でして、後の代に反魂丹の取り扱いをする商家ですが、ここから茶木屋を屋号にしたと伝えられます。元和6年10月に町年寄に任じられて、町人になりまし た(寛永18年1月21日57歳で没)。なお句集『狐の茶袋』第二集を編纂した、日下権兵衛明(字士明、号成雅)は分家で、横町屋富田徳風と町人の学問機 関である修三堂を建てたのは、本家9代目で横町屋から入った庄三郎です。

 さて、寛保2(1742)年に本家6代目庄兵衛の次男として生まれた中 郎有香は、室鳩巣の門人から漢学を学んだともいわれ、医学を町医者内藤彦助、ここの分家は加賀藩医の内藤家で、もとは放生津にあり、ここから蘭方医で維新 後に自由民権の活動家の内藤欽二が出ています、この人に学びまして、その後に京の古医方、和漢を基礎に実践を重んじる医方ですが、吉益東洞に入門します。 武梅竜に詩賦を学んだとも言います。本願寺の侍読になり、法主から「読書室」の堂号を賜りました。妻が和漢の医方を受け継ぐ7代目山本貞徳(さだのり、号 巨柳)の姪でして、認められて養子になります。号は封山、これは封が高い丘の意味があることから、高岡と掛けたのではないかとも言われますが、字は蘭卿 (郷)といい、加賀藩からの招請も断り、柴野栗山が諸藩に推薦してくれたのに断るという人でした。門人には常に患者を救う医業の意義、医業にあっては清廉 であること、などを説き、歴史研究にも傾注し、享和2(1802)年越中国に「越中万葉遊覧之地碑」を建てる際、請われて撰文を記しています(文化10年 3月没)。

 必ずしも蘭方医とはいえないのですが、安永7年6月16日生まれの次男 本三郎(永吉)世儒、字仲直、号亡羊は、医学は父から伝授されたものの、小野蘭山から本草を学んで、西洋の植物図録などを入手して、文化7年から亡くなる 安政6年まで、毎年物産会を開きます。蘭学に造詣の深い医者でした。

 その六男藤十郎章夫、号溪山(文政10年~明治36年)は、嘉永4年4 月1日に薬草採集を目的に京を発って、18日に祖父の生誕地高岡に来ました。8月25日まで逗留してその間に6月7日から7月14日にかけて能登をめぐ り、22日から28日には立山登山を高峰精一(譲吉の父)としています。京への帰りは大聖寺経由で、9月17日に着いています。

 こういったことから、京の山本家には越中国から多くの医者を目指す若者 が訪れ、入門しました。その中には高岡の上子元城(入門時22歳、文人でもあり、長崎浩斎の友)、服部修徳(書や詩にも通じ、高岡学館講師も務める)、沢 田龍岱(当時16歳、父も兄も医者で文人で13歳で医者の組合神農講に參加、後に早雲を襲名、石崎謙(和漢医で海老江浦に開院、藩や石川県に勤務し、民法 編纂委員、富山分県建白書を元老院へ提出する)の妹婿で、高岡学館の句読師も務める)、藩医内藤玄鑑も入門しています。

山本道斎

 次に山本中郎と良く間違われるのですが、山本仲郎道斎(文化11年5月 2日~安政2年12月22日)についてお話しましょう。祖父道仙(加賀藩士加藤長右衛門の次男、山本道叔道直の養子、文化8年4月15日没)は加賀藩医で したが、辞めて寛政3年魚津町に開業します(妻は生地神主高倉丹波守娘)。高岡町年寄三木屋寺崎半左衛門の四男の一覚学(天保8年5月18日没)が娘婿と して跡を継いで高岡に移り、 号は樫園で文人でもありました。その長男が道斎で、叔父の藩医内藤玄鑑の養子になって、藩校明倫堂に入学します。13歳で藩主御前で詩経を講じて褒められ るほどでしたが、格式ばったことが嫌いで黙って実家に戻ってきてしまいます。仕方ないので、道斎の弟宗春を替わりに行かせ、何とか内藤家に取り 繕ったとのことです(宗春の履歴書では天保10年7月11日のこととなっているので、父の没後か)。

 道斎は江戸で昌平黌、京で小石元瑞と頼山陽に学び、長崎へも留学して、 シーボルトにも接したと伝えられています。弘化元年に帰郷して医院を継ぐ傍ら、書堂を牛馬堂と名づけて、青年の教育にも当たったようです。嘉永元年には 蝦夷経由で北陸にやってきた頼三樹三郎(山陽の三男)が、道斎の許に7ヶ月間逗留して、その間町の人々と尊王を論じたりしています。他にも過激尊攘志士の 藤本鉄石も訪れ、町の人々を感化していきます。特に妹婿の高原屋逸見在綱やその弟の中条屋川上三六宜方などは、尊王の活動家で加賀藩の志士小川幸三とも親 しく、蛤御門の変以降に逮捕されたことさえある活動家でした。なお、逸見の姉は長崎浩斎の子言定の妻です。道斎自身は安政に亡くなっているため、捕縛され たりはされませんでしたが、安政の大獄を心配した遺族等が、著書の『静思録』を火中に投じ、焼け残ったものが一部分殘ったのみです。昭和5年に碑が片原町 の日蓮宗妙国寺に建立されました。

 弟甚造は三木屋寺崎市右衛門、宗春敦は内藤家150石、良順は眼科10 代 松田家(号逸斎)を継ぎ、万春は一覚を襲名して、道斎の遺児道太郎を養子にしています。この道太郎は祖母にかわいがられ、東京で学んで鼎と名乘ります。西 南の役や日清・日露戦争では1等軍医として従軍しています。

 ちなみに井伊大老が襲撃された安政7年3月3日の桜田門外の変で、負傷 者の救護に当たったのは、氷見の医者で江戸の蘭方医坪井信道に学んでいた、高野元礼でした。

佐渡養順

 高岡町人が時事の研究をしていたのは他にもあります。町人たちは中央政 局の動きを確実に把握していました。それは木町の大橋家や御馬出町の清水家などに残された膨大な文書からも明らかです。

 今回取り上げたいのは、利屋町の佐渡養順が中心になっていた勉強会で す。親戚である魚津の阿波加家から入って、蘭方も学んだ産科の名医8代目千代九郎養順(号竜斎)は文化人としても名高く、妻は長崎浩斎の妹です。男の子た ちは皆医者を目指し、オランダ語を読解できました。弟の良益と賢隆は江戸の坪井信道から学んでいますが、信道はオランダ語文法をみっちり教えた人で す。長男の9代目三良養順(文政3年7月26日~明治12年10月3日)の著書『和蘭薬性歌』(慶應2年、坪井信良閲)が、高岡中央図書館3階に開架され ていますので、興味のある方は御覽ください。藥の名をオランダ語で分かるようカタカナ表記して和名と対照させ、薬効を記載しているものです。

 さて三良は浩斎の激励の許19歳の時に小石元瑞の究理堂や昌平黌で学 び、書斎を蒼龍館と名づけました。下の弟良益(文政6年8月28日~明治37年11月9日)も元瑞に学び、江戸で坪井信道に入門して、認められて婿養子に 入ります。他にも広瀬旭荘に漢籍、緒方洪庵からも蘭学の手ほどきを受け、嘉永6年11月信良の名で養父の後を継ぎ、松平春嶽に仕え、幕府の蕃書取調所に勤 務し、将軍家奧医師に進んで徳川家茂に從います。やがて徳川慶喜と大坂、江戸、水戸、静岡というように行動をともにしました。信良は兄に、160年前弘化 から明治10年にかけて、実に詳細な書簡を送り続け、これを基に高岡の有志は勉強に務めたということです。

銃卒

 西洋の学問は医学ばかりでなく、測量や天文学などにも生かされ--石黒 家門下の測量術、道具の多くは御馬出町の銅工錺屋清六のサインがあるように高岡で作られています--は群を抜いています。また西村太冲門下の日食や月食、 彗星の天文観測も実に詳しい記録が残っています。これらは和算が下敷きになっていたからこそ出来たことです。二塚の筏井満好は和算を使って精緻な動力機関 を考案しています。

 軍事面でも西洋の兵学が採用されました。武士と軍人は似て非なるもので して、例えば武士だと形成不利の局面でも退くことは良しとは受け取らない、勇気が重んじられ、任務に失敗すれば切腹を潔いことと考える傾向にあるのに対し て、軍人は退くことも作戦の一つであり、歩砲騎の三兵の合同運用を生かした戦術・戦略を考えますから、縦隊と横隊の変形など自由自在でした。大体この頃に そのことを認識するのでして、藩の正規軍には加賀も富山も高島秋帆の砲術が取り入れられていますし、両藩とも研究が盛んでした。加賀藩は壯猶館を高岡町奉 行を勤めた大橋作之進などが創立し、上市出身の黒川良安が取り仕切っていまして、富山藩は藩校廣徳館を利用し、文の教育は教官私塾を分校化して対応してい ました。農・町人で組織した銃卒にも西洋兵学は導入され、イギリスのエンフィールド銃を持ち、軍楽隊を作って小隊・大隊調練をしています。高岡の銃卒 は士気が高く、各町内から積極的に応募し、調練を受けています。率いたのは源氏を祖先に持つ木町の29代鳥山屋敬二郎です。後に高岡市長、衆議院議員に選 ばれるその人です。京に出陣した銃卒47人の中に敬二郎を含む5人が高岡から選抜され、御門の守備にあたりました。

 今回お話したことはごく一部ですが、このように越中国、高岡は、文明開 化以前すでにして西洋の文物が流入していたのであり、古の知識をベースに新しい知識も力強く取り入れていたことがお分かりいただけたら幸いでした。

 

二、高峰三代~高峰幸庵・玄台・元稑

平成23年10月29日 ウィングウィング高岡5階 市民大学たかおか学遊塾交流会

はじめに

 越中国高岡町の町医者高峰家は、医業のみならず町人文化の発展と普及にも尽力していた。本稿では高峰家について、特に高岡町に招致されて以降の三代について考察する。

 高峰家について、高峰元稑(精一)による「先祖由緒並一類附帳」をもとに略記すると、姓は卜部であり、大和国添上郡三笠(春日の三笠山か)の刑部永知は織田信長に仕え、添 上と添下の郡代に任じられるが、元亀元(一五七〇)年に摂津国守口で戦没したという。妻は相樂郡湯船の岩城左近娘と伝う。継いだ仁左衛門知定(~慶長十 年・一六〇五)は三笠に住み、次の慶庵常安(~延宝五年・一五七七)が京の典薬頭半井驢庵法印に医術を学び医者になる。元和年中驢庵の江戸行きに同道した 際福井藩松平家の侍医に就任することになり、国替で越後国高田へ移った。母方の岩城を名乗って松平家の物頭黒田半兵衛の娘を妻にする。高田藩医で後に富山 藩医になる岩城家とは縁戚関係にあるかもしれない。藩医を継いだ仙庵壽信(~元禄五年・一六九二)は二百石取りであったが、子の元陸ノ進(~寛保元年・一 七四一)は幼少であったため百石、国替に同道せず、元禄十二(一六九九)年に辞して高峰に復し、高田上小町で町医者になる。幸庵勇(~安永九年・一七八 〇)が町医者を継承したが男子がなく、頸城郡山能美村(村名不詳)庄屋松村兵右衛次男を養子に迎えた。幸伯寛和(~享和二年・一八〇二)と名乗り町医者を続ける。妻 (延享三年・一七四六~文政七年三月六日・一八二四)は松平家(文政六年に桑名と越後に所領)臣中野家の娘で高田の生まれという(高岡利屋町大法寺墓 碑)。その子が幸庵寛容(のぶもり)である。

一、高峰幸庵

 安永八(一七七九)年に高田で生まれた寛容(通称が元稜、後に幸庵、字が君象、号は鼎亭や遵時園など)は京で吉益南涯門人吉岡氏を介して南涯に師事し、 『金匱要略紀聞』や『傷寒論紀聞』の口述筆記を担当しながら、南涯の所持していた『解体新書』を読み、特に気血水説から得るところが大きかった。賀川玄廸 にも学んだ後、杉田玄白への入門を企図して江戸へ行き、杉田立卿や土生玄碩、大槻玄沢、桂川甫周からも触発された。眼科を専門にしつつ、薬や医療道具につ いても学んでいる。

 高田へ戻った後、家老鈴木甘井の『熊胆真偽弁』編纂にも関与し、実験結果を大槻玄沢に送って見てもらう。玄白の「諳厄利亜国産科要具」を模造して京の賀 川玄岱に贈り、「越列吉低力的乙多(エレキチイリテイト)」を作って治療に用いている。絵画も巧みで、高田の善光寺に涅槃像の絵があるという。妻は榊原家 (寛政七年より三十三年間越後村上に所領)臣御馬廻組田辺善左衛門の長女トキ(磯部家娘の名知世とも)であるが、子ができず、高田町年寄長野金次右衛門 (孫八郎とも)娘の辰(十四歳)を養女にした。 

文化十(一八一三)年冬に富山町へ来遊する。このとき高岡町医者の長崎浩斎が教えを請い、幸庵は『解体新書』と『西説医範眼科篇』を講じた。翌年高岡町に 来た時には薬剤の製煉法を教示している。何とか町に残ってほしいと考えた浩斎や南善左衛門(射水郡中川村・御扶持人十村)や津田弥右衛門(塩屋)などは、 他国者の永住に反対する一部町医者の反対を押し切るために奔走し、町奉行の支持も取り付けたのであろう、国泰寺(臨済宗)侍としてなら問題は無いというこ とになった。懇請を受け入れた幸庵は、日蓮宗であったのを臨済宗に改宗し(父母は日蓮宗大法寺に合葬)、妻と母を同道し御馬出町に住むことにする。

長崎浩斎の医術修行には力を惜しまなかったが、その父である蓬州とは折り合いが良くなく、文政元(一八一八)年に生起した酒席での行き違いは、二十歳の浩斎を深く悩ませた(『。浩斎年譜』)。

医者としては多忙を極め、一日千服の薬を出したと伝う。著書としては『西説瘍医概言』『黴毒精薀』『医事旅行済生方』『西説眼球解剖篇』などがある。『西 説瘍医概言』では、神経が運動の根元であり、病の根元を考え治と不治を分けて施療し、無病を知ることで有病を治し平生に復帰させること、を説いている。

小堀正次(遠州)の末で高岡町奉行の小堀八十大夫政保(千石、在任:文化七年三月~文政四年五月、文政二年二月~同三年三月と同年八月には射水・砺波郡奉 行を兼任)は、農政にも詳しく(町奉行退任後には改作方御用)、かねてから南兵左衛門(善右衛門の子、十村制度の一時廃止で文政五年より射水郡年寄並)と 懇意であり、南家を訪れることしばしば、幸庵もまた同家へよく出入りしていた。八十大夫に従っていた松井利(理)右衛門は、好学の徒として知られていた嫡 男の藤馬清臣を同道することがあり、藤馬も医者を志していた。文政八(一八二五)年、体調を崩した幸庵は兵左衛門の薦めもあり、帰郷した藤馬を養女の婿に 迎えることに同意した後、二月二十七日四十七歳で卒。

二、高峰玄台

 玄台は犀江や赤松青・梧門・雲翁などとも号し、万延元(一八六〇)年底本『高岡詩話』に「性沈黙有義」の人であった。六十七歳で矍鑠していたというので、安政元(一八五四)年の記とすれば、生まれは天明八(一七八八)年であろうか。

 松井藤馬は幼少期から学問好きで、文化十一(一八一四)年に町の指導者長崎蓬洲と粟田佐久間が富山の漢学者 島林文吾(この頃富山で私塾も開き、眼科として兄の跡に藩医を継承)を招き、聖安寺中の安乗寺を借りて、孟子・唐詩選等の学習会を開いた際には、町医者子 弟の長崎浩斎、粟田庸斎、渡辺玄碩、内藤伊織、佐渡竜斎(八代目養順)などともに学んでいる。このような医者の友人が多かったためか、藤馬は剣術よりは医 術に関心が向きつつあった。やがて身分は低いながら、加賀藩を代表して江戸の昌平黌に留学したが、朱子学の研鑚と並行して医学書を読んでいた。こうなるに 至っては、父の利右衛門も藤馬を家士にすることは断念し、南兵左衛門の斡旋もあり、文政八年に高峰家へ入ることとなった。

 高峰家を継ぎ、玄台と称することになると、あらためて上京し究理堂(龍門楼)の小石家で解剖人体図を用いた蘭方医術を学んでいる。帰郷後、養父の代と同 様医業は多忙であった。天保七(一八三六)年は未曾有の凶作であった。夏に雨がちで、八月十三日昼には大暴風雨で諸川が氾濫し、二十日に山寄で丸雪が降っ た。新川郡では早月川が栗山より入川している。加賀藩は富山藩を含む領外への食料移出を禁じ、移入を奨励して新米の出回り促進策を実行する。さらに高岡町 奉行と町会所の措置として、玄台が札持参者に朝五ツより施薬を行い、十月見合札所有の極貧者には昆布入粥を一合二文・一升二十文、稗もみこぬか等一升三十 文・仕立いり粉一合三文、稗ぬか仕立いり粉一升二十文・一合二文、いりこ団子十個十五文・一つ一文半で売出した。

門人も抱えていたようで、前田良策(文政三年に氷見胡桃原村の生まれ)は、天保十二年三月から嘉永元年十二月まで玄台に内科と種痘術を学んでいる。この頃 の高岡町奉行は以前実父と仕えていた小堀八十大夫の子金五右衛門政令(在任:天保十三年五月~嘉永六年三月)であるから旧知の間柄であり、交流があったと 思われる。

それでも漢詩の吟詠は趣味の域を越え、文政九(一八二六)年には松映房社(前年に関野神社前から越後屋太助を楼主とする陸舟楼に移転)に加わり、富山の江 尻譲斎(宗叔)は毎月高峰家に泊まって参加していたという。詩文に『犀江吟草』があり(所在不明)、『春藻錦機』や『高岡詩話』に載っている漢詩は、日々 の生活を愉しみ、自分の人生に後悔は無い、というような明るく前向きなものである。これまで充実していた。子供が三十歳に近付き孫の顔を早く見たい、富を 求めず、家を斉え欲張らず、仁を知るとともに、朝起きては鳥に学び、晩は適度に飲酒し、残された人生を意義あるものにするため、世間の縛りを脱しよう。こ れが玄台の望むことであった。すると嘉永七年九月に孫が生まれた。

男子誕生と家の繁栄を願う玄台は、蘇東坡の「三槐堂銘」を読んで庭に槐を植えれば子孫が出世すると考え、槐を庭に植えて毎日「鬱々たる三槐、惟徳の符」と 称えていたら、文政十(一八二七)年に嫡男の元?が生まれたと伝う。槐は明治十二年の大火で焼失してしまったが、その前に元?改め精一が金沢の屋敷門左右 に苗木を移植している。その後に娘二人が生まれ、高岡町の米屋弥三兵衛と藩士岩田忠蔵に嫁がせた。弥三兵衛の弟は玄台に入門、安政五(一八五八)年には金 子・長崎等の町医者とともコレラ対策に奔走し、八月二十五日から体を温める煎じ薬を布袋付で三日間に約一万五千帖を施薬する。慶応元年には養子として高峰 幸庵を名乗り、明治三十七年まで主のいなくなった御馬出町の高峰屋敷を守った。明治四年三月には博労町極楽寺庫裏に設立された金沢藩の医学館高岡出張所で 窮民の診察にも当たっている。

玄台は医院を門人に委ねて精一とともに金沢梅本町に移り、譲吉達孫の相手をしながら余生を過ごし、慶応元(一八六五)年正月二十五日に卒した。

三、高峰元

 文政十年の元?の誕生は晩婚の玄台にとっても、また高峰家にとっても、念願というより悲願が達成した瞬間であった。

後の元?こと剛太郎は、親の期待を超える人物に成長する。幼年時より内外の学問に興味を持ち、物怖じしない性格であった。南家には茶や詩を習いに通い、風 雅の道にも通じていた一方、頼山陽の子で安政の大獄で処刑されることになる頼三樹三郎が高岡に逗留した際には、親の書風を真似るとは不見識だ、と意見した そうである(南兵吉談)。号は槐処または槐窓、父玄台の逸話にちなんだ。天保十四(一八四三)年三月上京して小石元瑞に、弘化二(一八四五)年四月江戸で 坪井信道に就くこと計七年、西洋医学や化学にどっぷりと浸かる。同門(天保十四年入門)が高岡町出身の佐渡良益こと後の坪井信良である。嘉永二(一八四 九)年、元稑二十三歳の時に帰郷し、父を助けて医療に従事する。

嘉永五年に結婚したようで、相手は津田弥右衛門喜三次の娘幸子(ゆきこ)である。津田といえば幸庵を招いたあの塩屋(鶴来屋)であり、喜三次の字は操、子 薫、号は半村や鶴堂・松齊・寿芳園。寛政九年中川の南家に生まれである。文政の頃に当時酒造業を営んでいた津田家の養子に入るが、二十七歳で養父を失っ た。専龍寺の顧行に経文を教わり、島林文吾(号雄山)に詩文を学んだのであるから、玄台とは学友でもある。その後に京で頼山陽に師事。書堂を棲鳳楼又は清 足軒という。嘉永元年十月十日に山陽の三男三樹三郎鴨崖が高岡の町で国事を議し、小杉の自家造酒屋で宿泊している。また長崎浩齋らと漢詩吟松映房社を興し た。町役人としては町算用聞並祠堂銀才許を努める。祠堂銀才許とは瑞龍寺の祠堂銀運用役のことで、当時瑞龍寺は年一割の低利で町民に融資し、寺の財源確保 と町の商工業の発展に寄与していた(利息の二分が才許人の手数料で八分が寺社奉行所に入った)。天保の頃には茶苗を宇治から取り寄せ、栽培している。来訪 者が多く、広瀬旭荘が来た際、潤筆料があまりに高いため、「旭荘ではなく欲荘だ」と言った逸話がある。明治四年二月に没した。長女幸子は高峰家に、次女の いつは木津家に嫁ぐ。高峰家は津田家と南家につくづく縁が深い。幸子は嘉永七(一八五四)年九月十三日に横田西町の実家茶室で嫡男譲吉を産み、安政四(一 八五七)年に節子(南兵吉の妻)、万延元(一八六〇)年に貞子、文久元(一八六一)年に順子(竹橋尚文の妻)、元治元(一八六四)年に退二、慶応元(一八 六五)年に栄三郎(藤井家へ養子)、同二年に三郎、明治元(一八六八)年に十九子(能久治の妻)、同二年に十三子、同三年にせい子(田島吉右衛門の妻)、 同四年に五十子、同六年に享一郎、というように多産であった。明治二十七年四月二十九日に卒。

さて最新の西洋医学に通じた元?の名は藩内に広まり、新川郡出身で藩の西洋技術導入を任されていた同じ坪井信道門(天保十二年入門)の黒川良安が元?を口 説き落とし、金沢に招く。最初は町医者として金沢新竪町に借家を借り単身であったが、この間に嫡男が誕生し、安政二年には加賀藩より壮猶館(西洋の軍事研 究と訓練)舎密方(化学)臨時御用に任じられて、化学実験に明け暮れる生活を送る。公的には昇卜部紳(つかね)と称していたようである。九月に妻子と父を 呼び寄せた。二十年間に五回居を替え、屋敷には蒸留器(アランビック)やフラスコ・ビーカー等の実験器具やオランダ語の書籍で満たされていた。壮猶館では 蚕の蛹から硝石成分を取り出す伝統的手法を復活させることに成功する。木の桶を使い薬草と水を加え四十~五十日低温で化学反応させ硝酸銀を作り、木灰のア ルカリを加えてゆっくり冷まし硝酸カリを沈殿させるのである。

以下は「先祖由緒並一類附帳」より。

安政二年二月壮猶館舎密方臨時御用(三十六俵二斗六升三合)、五月土清水で西洋流製薬、七・十二月に銀子被下、同三年十月御細工奉行別支配・壮猶館舎密方 御用(七人扶持)、同六年二月御医者と壮猶館舎密方御用を兼帯(十人扶持)、五月に前田慶寧を診察、万延元年三月大桑製薬所御用、十一月前田斉泰を診察、 文久元年壮猶館翻訳方御用と校合方御用を兼帯、十二月前田慶寧を診察、同二年壮猶館医学試業と蘭医書会読方御用を兼帯、同三年四月御軍艦方御用を兼帯し能 登所口で石炭等を見分、三州(加賀・能登・越中)へ出張、六月顕光院・初姫を診察、元治元年正月初姫を診察、七月御守殿詰御番、十月初姫を診察、二丸御 番、十二月真龍院を診察、慶応元年二月禮姫を診察、三月種痘所棟取、同三年七月英国人通行の節に旅宿詰、十一月前田慶寧上京の御供、同四年三月景徳院御迎 えのため越後出張、四月養生所棟取、七月前田慶寧の上京に御供、明治二年八月富山藩医学所と病院創立のため富山へ出向、同三年正月権少属・医学館教師、九 月民政掛

このように研究者としても医者としても忙しく窮屈な城勤めをしながら、石高は百石十人扶持に達したという。仕事面では黒川良安と共にすることが多かったと 思われ、医書ならともかく軍艦の動かし方や機関の構造、兵書の翻訳などは門外漢であるから、特に文久年中は戸惑いながらの勤務であったろうが、それだけに 学問上の刺激は大きく、日々充実していたのかもしれない。藩は元治元年に石炭発掘のため筑前国より山師を招き、近江国今津と海津にあった加賀藩支配地を含 む全領内をくまなく調査させた。このときに壮猶館でも高峰元?は辻安兵衛・鈴木義六などと一緒に舎密方御用で調査に当たる。しかし残念ながら明治維新の前 に増産体勢を整えるまでには至らなかった。卯辰山の養生所には慶応元年より関わったようであり、五箇山出身の丘村隆桑と同僚であった。明治二年に精一と改 める。同四年に富山藩では西洋医学校を山王町の山田嘉膳邸跡に創立し、教師派遣を金沢藩に要請したため、高峰精一を出向させる。生徒数は最大百四十人で、 やがて洋学南校と改称される。同四年四月まで存続した。精一は長居せず金沢に戻ったようであり、廃藩後に石川県医務取締に就任、石川県富山病院長として富 山に再赴任したものの、まもなく金沢に帰り開業する。この間に嫡男譲吉は七歳で藩校明倫堂に入学し、慶応元年から安達松太郎(安達幸之助の子息)等ととも に長崎へ官費留学を経験(出発前に撮影した写真には父子とも髷がすでに無い)、医者を継ぐ意思の無いことを告げても精一は反対せず、譲吉はやがて渡米し科 学者として大成したのである。

ようやく激務から解放されたその後の精一は、本業の開業医として患者の治療にあたりながら、父譲りの漢詩作りを楽しんでいた。明治三十(一八九七)年元旦 に詠んだ詩で、譲吉や孫たちに会うため渡米の意思を吐露するが、それは叶わなかった。同三十二年病篤く、譲吉は急ぎ帰国するが、翌三十三年八月二十二日に 卒した。

おわりに

 高岡町には蘭方医が多い。町奉行が駐在しているとはいえ、実質的には町人の自治下にあり、技術や学問上での忌避は少なかったように思える。医者たちは神 農講を開いて症例研究と情報交換をしながら、医療水準を高めようとしていた。これが高峰幸庵を招き、医者に転じた玄台を迎えた環境であり、町民に蘭方医で あることへの反発のようなものは一切無かった。

 今日の医学は自然科学であり、人文科学や社会科学とは別物であるが、かつては医者を志すものは、漢方であれ、蘭方であれ、朱子学を修めねばならなかっ た。それは理気を理解するためであり、その理解に基づき宇宙を説明し、生命について、人体について考えたのである。西洋医学の知識はこれを補完するにすぎ ず、手法としての蘭方であった。したがって心を修め聖人を目標とすることと、人体の有り様を知って健康を増進し病気を治すことは、決して相反することでは なかった。幸庵や玄台の学んだ医学はこのような学風であり、元?の学んだ坪井信道はオランダ語の原書を読め文法の講義をするほどであったが、若い頃は儒学 をしっかり学んでいる。

 高峰三代が学び育んだ無形資産である学風と志は、医者にならなかったとはいえ譲吉に流れ込み、やがて実を結ぶことになるのであった。「研究・開発・実用 の信念を終生持ち続け」「苦境にあっても、切り抜けていく明るさは生来のもの」(『高峰譲吉とその妻』より)、まさに玄台の称えた「鬱々たる三槐、惟徳の 符」なのである。

 

参考文献

『高岡史料 下巻』(高岡市、明治四十二年)

『高岡市史 中巻』(高岡市史編纂委員会、昭和三十八年)

板屋小右衛門『春藻錦機』(文政四年)

津島北渓『高岡詩話 巻之二』(万延元年)

塩原又策『高峰譲吉』(大正十五年)

大橋清信「高峰精一と越中蘭学の源流」(『富山史壇 第百七号』、平成四年五月)

飯沼信子『高峰譲吉とその妻』(新人物往来社、平成五年)

正橋剛二「長崎蓬洲の年譜について」(『醫譚 第六十九号』、平成七年十一月)

津田俊治『津田家と高峰譲吉』(平成七年)

津田進三「杉田玄白門人と高峰幸庵について」『日本医学史雑誌 第四十一巻第二号』(日本歴史学会、平成七年五月)

太田久夫「高峰家と高峰譲吉」『北陸医史 第十八巻第一号、平成九年』

飯沼和正、菅野富夫『高峰譲吉の生涯』(朝日新聞社、平成十二年)

「高峰譲吉展」(高岡市立博物館、平成十六年)

「先祖由緒並一類附帳」(明治三年十月)

その他

第四章  越中国の文化・文政以降

 

【FM局「ラジオたかおか」で平成16年・17年に話した内容を再編集したものです。】

 

一、平成16年12月20日

郷土史を学ぶ意義

 近年人口の県外流出、学校や家庭の教育力が低下しているといわれます。その当否はともかく、郷土史を知ることで、自分の住む地域や先祖に誇りを持ち、責 任を感じていただきたい。また子供や孫に伝えてほしいのです。このことが日本人に自信を取り戻す契機になります。もっともあまり難しく考えず、歴史で楽し むという姿勢を持ってもらうのでもかまわないのですが。

黒船来航

 越中沿岸に黒船が実際にやってきたお話です。これは150年ほど前の出来事。伏木にも黒船、ロシア船が無断で侵入し、測量していきました。その前から越 中沿岸に加賀藩は伏木・放生津・生地、富山藩は四方に御台場を建設し、領民も積極的に防衛協力を藩に申し出ています。労力・お金・医者・高岡金屋の銃砲鋳 造などです。越中の人々は藩士による支配を受けていない地域が多く、元来から自治意識が強いのですが、海防への参加を通じて行政・警察のほかに軍事面にい たるまで力を持ちました。

教育・文化の振興

 人々の自治意識は教育と文化に裏付けられていました。200年前には越中各地で寺子屋・私塾が網羅され、男女とも8歳頃から3年ほど学んでいます。高岡 町と戸出には女子専門の寺子屋まであり、富山藩でも藩主側室菊園の女子指導が行われていました。私塾では漢学を中心に、氷見などでは国学、富山町や新川で は陽明学も講じられています。また郷学という、町奉行所と町の人々が協力して設立した学問施設がありました。高岡町では時期こそ異なるものの、影無しの所 に修三堂、関野神社前に敬業堂、町奉行所官舎のある所に高岡学館がありました。ここでは年齢にかかわりなく学びたい人が学び、公民館のように学習会にも使 われていました。子供から大人まで学び、ここで儒学、高岡町ではとりわけ関門心学を学習し、修三堂では『高岡湯話』といった書籍の形にして普及を図ってい ます。富山町でも藩が寺を借りて関門心学の学集会を催し、反魂丹商人などの町人へ出席を促しています。さらに人々は自主的にサークルをつくって学びあいま した。これらのことが教養を涵養し、自治意識の根幹を形成したといえるでしょう。

蘭学の普及

 高岡町は蘭学の盛んな地域であり、そのほか越中各地で蘭学が普及しました。その最初は医者が京や大坂、江戸で蘭方医塾に入学し、長崎から入ってくるオラ ンダ語に直された西洋の書物を入手したことにあります。そのためオランダ語のできる医者を多く輩出しました。西洋技術は測量・天文学でも流入しています。 これも書物を通じて取り入れられたのですが、もともとわが国には漢方や和算の伝統があり、これらと西洋の学問・技術とのよい所取りをした点に特色がありま す。やがてこういった蘭学は、西洋式の軍制研究に応用され、さらに深化しました。

 廃藩後の文明開化以前に既にして西洋の学問は普及していて、生活にも取り入れられていました。加賀藩と富山藩は、ともに学問の普及を後押しし、単なる圧 力・搾取期間ではなかったことに留意する必要があるでしょう。

 

二、平成17年9月26日

越中国の通史

 加賀藩と富山藩後期、文化・文政から慶応までの越中国についての通年の歴史です。特に危機管理という点で、藩や町・村がどのようなことを準備し、また実 行したのでしょう。

文化・文政期

 町・村の自治が完成し、文化が花開いた時期です。各地では村境・山境・魚場を巡る争い、米や菅などを干す場所や神社を巡っての争いなどが頻発し、訴訟が 起こされています。このことを逆に見れば、その判決が出てそれが確定して安定していったと考えられます。今に至る慣例になったものも多くありました。また 新田開発で新しい村も出来ました。

天保期

 天保は未曾有の飢饉が起こりました。そこで町・村とも藩をあげて救済に当たります。通常は藩の役人が町・村の運営に干渉することはありませんが、重大事 には藩主から全権を付与された役人が派遣され、迅速に町・村役人に指示を出し,必要物資を手配し、藩へも強くかけあいました。蓄えてある米を放出し、米価 の引き下げに当たり、米以外の山菜・野草を原料にした団子作りなど、取れる措置を全てとって対応します。これは財政危機の最中にあっても最優先で実行され ました。さらに農村救済に重点を置いて、町人の持ち高を村に変換させたりもしています。

弘化・嘉永期

 この頃富国政策が緒につき、各地で産業が育成されています。一方で沿岸に異国船が出没し始め、藩は警戒を強めています。新川郡を始め、各郡で暫定的な補 助員としての海防人夫を動員する準備を進めるとともに、情報伝達ルートを定めて非常時に備え、婦女子を緊急時に避難させる計画も策定しました。

安政・万延期

 この時期には地震と疫病が人々を悩ませています。特に安政5年という年は酷かったことで知られています。安政の大地震が起きて、藩は救済に努力しました が、天候不順と流言が流れて各地に暴動が発生し、藩はさらなる窮民救済にあたります。また疫病、特に当時の三大病である麻疹・疱瘡・コレラに対しても、薬 の施種や種痘に努めました。なお頻繁にあった大火後の復興策として、藩は無利子・長年賦、事実上の無償供与で迅速な家屋再建に努めています。

 御台場の建設を加速化させていますが、安政6年にはロシア船が伏木に侵入するという事件も発生しました。これを期に飛脚による連絡方法を見直します。

文久期

 一方で人々の生活は豊かになりつつあり、埋設上水道が整備されて衛生面も改善され、子供から大人まで教育が普及し、関門心学の学習を通じて商売倫理が向 上しました。藩や町会所による社会保障も充実をみて、藩医による巡回診療や町医者に施薬を依頼し、住民は札を事前にもらい、無償で供与されていますから、 今の保険証のようなものです。年金もあり、85ないし88歳で名簿登録し、90歳になると支給されていました。100歳では藩から記念品が出ています。こ の記録は結構各地で見られます。育児補助も行われ、当時の少子化社会にあり三児出産の場合には15歳になるまで補助が支給されました。捨て子の養育者にも 支給され、また目の不自由な人への生活資金が支給されたりしています。産業の面では今に至るものも多くあり、氷見ではアサリなどの貝を移入して放つといっ たことまでしています。なお以前から祭りが疫病沈静を目的にして行われ、曳山、子供獅子舞や歌舞伎の形を借りて定着して、現代に継続されるようになりまし た。

 さらに海防の充実を図り、沿岸に在番という駐屯部隊を派遣し、補助兵力として農兵である銃卒を編成します。これらは西洋式銃を持ち、調練を受けました。

元治・慶応期

 維新の動乱期にあたり、藩は兵制を西洋化し、海防から国内戦への対応に転化していきます。組織は幕府に倣い危機対応型へと変わり、管理的な産業政策から 自由化へと転換して、藩は利益調整役に専念するようになりました。

 

 このような歴史から学ぶことは多くあり、現代にも受け継がれているものもたくさんあります。歴史には参考にすべき事柄が多く含まれています。何かを決め ねばならないとき、また決定の際に関係者の間でこんがらがった糸をほぐすために、一度歴史を見返してください。必ずヒントがあります。また町村合併が進行 している時期に当たり、お互いの歴史を学び、共通認識を持つことは大切なことです。

 

二、平成18年4月3日

福岡と高岡の関係

 高岡市と福岡町が合併したことに関し、少しお話しておきたいことがあります。慶長14年(1609)に前田利長が居城富山城の炎上で、関 野が原の台地に高岡城を築城し、9月に移ったとされていますが、町を建設しました。その際に福岡から木舟城下から移住して高岡に木舟町を作りました。赤丸 の曹洞宗宗泉寺が高岡の横田へと移りましたし、総持寺も慶弔年間に赤丸の舞谷から高岡の関町へ移っています。

 その後に高岡は商売と流通の町へと発展を遂げ、参勤交代が二千人ほどで列をなし、寺院や商家に泊まるのですが、これに高岡が便利なため、中田ルートが脇 街道になり、高岡ルートが本街道になります。そのため福岡では長安寺で小休憩をとることになりました。寛政4年(1792)からは伊兵衛家へと替わってい ます。

 また藩に年貢を納めるときには、福岡の人々は立野・今石動・三日市そして高岡の御蔵へと運んでいました。福岡にも蔵はあったのですが、明和元年 (1764)以前に廃止になっています。

 さらに農村に肥料の屎灰、これに灰だけではなく人糞や尿を使っているのですが、今石動から買うと高いので、高岡から買い入れていました。

 福岡の特産である菅笠は天保14年(1843)に福岡町を中心に44か村・100町歩余で栽培され、福岡・立野・福町に集めて、高岡の商人が金沢・能 登・富山へ売り捌いています。また産物は船運を利用し小矢部川で伏木へと川下げしていました。

 人の交流も盛んで、福岡の土屋小山家は11代目の半兵衛が寛政8年に十村になった名士ですが、、藩政後期の素軒は石堤の長光寺で織田家の末裔の雪象に学 んでいました。

 このように高岡と福岡の間には深いつながりがあったのでして、今回の合併にも歴史的な背景があったことを、私たちは意識する必要があるでしょう。

 

ラジオたか おか FM76.2MHz  毎木曜17:15 「万葉レジェンドギャラリー」で「200年前からの越中と高岡の様子と人々」を放送。 各 回の概要

 

平成18年10 月14日 富山県民生涯学習カレッジ学遊祭で講演

 

石田小右衛門と富山藩の財政再建

 

一 富山藩の財政事情

 富山藩は寛永十六年(1639)立 藩の時点で人件費が財政を圧迫し、リストラを繰り返しながら、新田開発を急いで実収高を上昇させて、かろうじて維持していました。

 

 寛永十六年  家臣俸禄九万 石

 寛文六年(1666) 同七万八千 石

 明和三年(1766) 同七万二千石

 文化十四年(1817) 同六万四千石

 天保五年(1834) 同五万五千石

 朱印高 十万石 実有高 寛永十六年 十一万二千石 寛文四年  十三万六千石 実収米 二万八千石

天保四年まで財政を十年間分平均すると、歳入が年に収納高二万四七二六石、運 上高一万 二八四両、 歳出が年に三万七五八両二歩かかり、累 積の借財が三十万 両になってしまいました。特に天保二年(1831)四月 の大火と不作が藩に決定的なダメージを与え、幕府から金五千両を借りる始末、同4年9月に夜中、大勢の物乞いが横行し、翌年は凶作でした。

 そこで藩主前田利幹は、天保四年の冬より五年 間の財政改革を発令し、この時に西本願寺が財政再建に成功したとの話が伝わっていたため、これを参考にするべく、富山町人で本山出入りの商人で長町人の黒瀬屋六右衛門、米屋喜兵衛、中屋健吉を通じて内々に伺ったところ、石田小右衛門を紹介されまし た。

二 石田小右衛門とは

 石田小右衛門は、新田義貞の家臣を先祖に持つ摂津国川辺郡小坂田村山岸家の分家で、豊嶋郡東市場村岸上家に生まれ、名を敬起といいます。岸上家は富農で あり、天保頃には相当の勢いがありました。家訓は浄土真宗の教えをもとに、勤勉・正直・倹約を旨とし、米の仲買に際しても短期的な利益より、長期的な視点 で考えることをモットーとしていました。

その教えのもとに三人の子供達が育ち、長兄の忠太夫は麻田藩士として財政面で活動し、次兄治左衛門は一時一揆を企てたとして追放になっていましたが、帰国後に家老の中村伊兵衛と協力して、藩の財政再 建にあたっていました。小右衛門は末弟であり、若くして大坂天満の乾物仲買で寒天問屋の大根屋石田家へ養子に行きました。そこで堅実な商売をして養家を立 て直し、大川ざらいの折には四百両 の寄進をしたといいます。小右衛門の残した家訓には、

朝は粥 昼一菜に夕茶 漬け 後生大事に身のほどを知れ

とあり、大根の絵が入っているそうです。

岸上家、そして小右衛門の手腕を見込んだ岸和田藩は、文政十一年に財政改革を依頼しました。これが小右衛門のコン サルタントとしての始まりでした。天保元年に西本願寺の改革のため、店を息子の小十郎と実兄の治左 衛門に託して京へ移住し、以来兄とも協力しながら十以上の諸藩・旗本・寺院等の改革に携わり続けました。 活動の拠点は近畿地方であるものの、富山藩からの懇請を容れ、遊説に出かけます。

三   思想の基盤は石門心学にある

 富山に来てから小右衛門は「演舌」会を寺院等で連日開きます。その内容は国恩と仏恩に感謝し、質素倹約を旨とし、御恩報謝の気持ちを難渋している殿様 に、献上という形で表そうというものでしたが、先にお話したように、岸上家の教えや小右衛門の歌からも読み取れるように、石門心学の影響があります。

 石門心学は京の石田梅岩を開祖とします。梅岩は享保14年に45歳の時から毎月の塾会を通じて、町人には町人の道があること、商人は 社会にとって必要不可欠の職分であって、売買の利は武士が主君から受ける俸禄にも比すべき正当なものであると説いて、商人の自信を高めるとともに、正直と 倹約の具体的な道を示して、人々に安心と喜びを知らせようとしました。

 この教えは以後、手島堵庵、布施松翁、中沢道二、上河淇水、鎌田柳泓、柴田鳩翁など、多くの心学者によって全国に広まり、一般民衆はもとより、多くの藩 主から支持を受けています。

 越中国では、高岡町に文化3年富田徳風などが影無坂に郷学の 修三堂を建設し、手島堵庵の門人である脇坂義堂を講師に招いています。高岡町では心学を通じて町人の倫理感を 高め、商売道徳の向上に生かされました。

  脇坂義堂は京に生まれ、堵庵や松翁に学んだ後、高槻藩に遊説したのですが、そこで伊藤仁斎等の古学を批判したため堵庵から破門されますが、江戸で中沢道二 に助けられてから、人足寄場の教諭方を務めたり、全国を遊説しました。その折に高岡町にも来て、その後金沢で心学を広めるのに大いに活躍しています。義堂 は自らを内虚外軽の瓢箪に例え、堪忍と知足安分、さらに親密な親子関係の重要性を説きました。

 富山藩ではこういった心学を藩をあげて奨励し、文政3年3月町人に宛て寺町の円隆寺と船橋向の極性寺で忠孝の道話をする ので可能な限り出席するよう、強く申渡しています。

 石田小右衛門の考えは、こういった教えと根底でつながっている者と思われます。富山の人々には心学の素養 があり、仏教への帰依は深く、藩内三百余の寺院のうち二百三十余寺・実に八十%が真宗です。したがって西本願寺の再建に当たった人物で、全国的に著名な小右衛門ときたら、それはもう富 山では熱烈に受け入れました。

 

四 石田小右衛門の富山での活動

①天保四年の演舌

 さて、小右衛門は天保四年十月十五日に富山入 りします。町や郡からは小杉辺、追分茶屋まで迎えに出て、幟が立つなど大歓迎です。ここまで駕籠で来た小右衛門は、降りて徒歩で御福新町より舟橋見付御門へ進み、諏訪川原、平吹町、旅籠 町、越前町、一番町、二番町、高札のある西町、中野町の 角より藩士九百石の生田左近宅から宿泊所に定めていた反魂丹役所へ着きました。当日は雨天であった ため、足駄履きで町々を悠々と行進し、着いたのは夕方だったといいます。領内には事前に小右衛門が来ることを触れてあったため、どんな人物かと人だかりが できて、前日より店を借り切って、そこから眺める人もいたそうです。

 翌十六日 は一日休みを取り、十七日 から活動を開始します。早速登城し、前田利幹と二人だけで会談すると、利幹は翌日から質素倹約を自ら実践したとい います。休んだ十九日 を除く二十二日 まで城中で家中に「演舌」、二十三日 に町役所で中坊主以下の半数と格式町人半数に演舌、二十四日通坊・金乗坊で町人に演舌、二十五日町役所 で中坊主以下の残りに演舌、夕方には御郡役所で四方・西岩瀬・八尾の三宿町年寄や御扶持人十村、長町人と長百姓の格式町人・百姓に演舌、二十六日から二十八日まで通 坊・金乗坊で町人や寺院に向けて演舌、二十九日は休みとして、十一月一日・二日に八尾の聞 名寺、三日 笹倉村の妙順寺、四日 布目村の長専寺、五日 布市村の常福寺で演舌、六日 は御城で食事会が催されますが、その夕方に通坊で演舌、七日は休んで、八日に富山を出立し、西岩瀬の専林寺で演舌をした後に伏 木古国府の勝興寺で十一日 まで逗留して、寺改革の仕法を立てから帰京しました。

 富山での逗留中は、藩から肩衣、時服、裃、脇差が渡され、これを着けて寺院等で演舌しました。また演舌の節は、中坊主組の面々が茶などを出して、小右衛 門が異動する時には町廻り・野廻り・足軽が前後を警護して、反魂丹役所下役小見付などが付き従っていたようです。町役所や御郡役所で演舌する時には高座に 毛氈を敷いて、その上に座りました。小右衛門の助手に専応寺と称した真宗の僧が常に同道し、演舌もしたそうです。町方の寺院で演舌した際は、勘定奉行、改 革方懸り下役などが詰め、町奉行、郡奉行、町奉行下役、郡方頭取は継肩衣で出役しました。

 藩は小右衛門に改革を委ね、家中からの借米二分五厘はやめることにしました。藩に銀を貸していた鎰屋九 右衛門も取立てを猶予しました。また家中・領民に男女を問わず演説会への参集を触れたところ、大勢が集まり小右衛門の道話に聞き入り、感動の連鎖を生み、仏の来迎を拝するようで、藩 への献金が相次ぎます。婦負郡の農民からは五年間に五石ずつ差し上げたいとか、太物屋清次郎と嘉右衛門から は、火災にあってこれだけしかないのですが、と断った上で百五十両を寄付、中には通坊・金乗坊で、草履や草鞋をな い、俵をあんで上納したいと差し出した農民の願書を、助手の専応寺が高座の上で高らかに読み上げると、人々は皆感服したという逸話も残っています。

②天保五年の演舌

 天保五年四月十四日に小右衛門は再び富山入りし、野口村の願念寺で休息した後に演舌してから、城下に入りました。夕方に宿 泊所の御郡役所に着き、翌日に登城して前田利幹と会見した後、十六日から二十日まで通坊・金乗坊で演舌、二十一日と二十二日には城中で演舌、二十三日は休んで、二十四日から二十七日まで登城して演舌、二十八日に町役所で中坊主以下に演舌、二十九日に布目 村大安寺に泊まりこみで演舌、五月一日萩嶋村正栄寺で昼休みそこそこに演舌、この日に八尾入りして三日 まで聞名寺で演舌、六日に富山に戻って、七日 に通坊、八日に永福寺、九日に本寿寺と北代の極楽寺、十日に海岸寺・円隆寺、十一日光厳寺、十二日通坊および常楽寺といった具合に精力的に演舌をこなしてい ましたが、さすがに疲れがたまって、十三日に休んだ後に臥せってしまい、藩医の木村東詮の往診を受 け、帰京しました。

 今回の改革では、家中から五年間の半知借上げを反対意見もなく申渡し、三十三万八千貫文程の銭札について毎月七日に金百両ずつ償還するよう指示しています。婦負郡と新川郡の高持百姓からは、村々から一万五百石、十村からは五百石、四百余ヶ村の肝煎から千三百石を五年間借り受け、演舌の場で目録を読み上げ ています。

 また寄付が前回を上回り、町の搗米屋からは五年間に金子三両 ずつ、妻から一両ずつ、倅からも一両ずつ差 し上げたい、などというものもあり、通坊へは献上が相次いでいます。

 八尾より銭で作られた鷲一羽、これまた銭で作った「イワス」に止っている。大根を両手 に差し上げた絹の大黒が一体、銭で作った米俵二つと同じく銭の縄目皿が付いている。銭で作った福助一人。輪島製の八升入り大盃一つと八升入りの瓢箪一つ。 室屋町からは、金銀銭で作った看板。稲荷町からは、神輿に小判を釣って周りを銭で作ったもの、天幕 簾や祇園囃子。舟橋向からは麒麟一羽、銭で作ってあって、歯は一朱金、足は二朱金、象一匹、銭と一 朱金で作って、鼻や体は大根。山にいる亀を銭や銀で作ったもの、同じく松に「さい」の作り物。三番町からは、銭で作った幟一本と金銀などで作った桜の造 花。一番町と宗為町からは銭で作った陳太刀、下げ緒も銭で作っている。西町からは孔雀一羽が、銭や 小判十五枚ばかりで作って、銭で作った「まとへ」(纏か)、銭などで作った鯛二疋、中野両町から米と金銭札などを多数、その他。

など凝りに凝った寄贈でした。稲荷町の玉輿と祇園囃子に三味線を弾かせ、次の唄が歌われ たそうです。

 上辺がよければ下までよいぞ 君の御恩は忘られぬ うれしう思うはいついつまでも 御 恩たりとや はやありがたや 君の代の千代までかけて 石田畠で万作じゃ これへめでたい玉のこし よいとさ よいとさ よいとさなあ

 藩は六月に家中の精勤と領民の 冥加に感謝の意を表し、銀主の鎰屋九右衛門にも迷惑をかけないことを誓っています。九月には飛騨国 舟津町の北沢屋に十一月までの借用金三百両 を、改革中のため待ってほしいと、これまた懇切丁寧、慇懃な書状を発しています。この年の献上米は野積谷などから 三千五四三石余あり、千石町の御蔵へ運びこまれました。

③天保六年の演舌

 三度目の富山入りは、天保六年二月二十五日で、これまで同様に群衆が迎え、夕方に宿泊所の御郡役所 に到着しました。翌日に登城してから日々、通坊、八尾、西岩瀬、四方などで寺院を使い演舌しています。この間は御郡 役所を奉行二人の宅に移して、月番を立てて仮の役所にしていました。

 やはり所々では金銀銭の寄付が相次ぎ、その内訳を読み上げるといったことをしていますが、さすがにこの頃には減少傾向にあったようです。三月七日に富山を出立し、勝興寺に立ち寄ってから、京 へ戻りました。

 八月に藩は改革年限中の役知等の一割減を発表しています。石 田小右衛門はこの後も諸藩の改革に尽力し、弘化元年には麻田藩の財政を岸上家などの富農に委任させ、藩札の運用と信用借入で支えました。

五   富山藩のその後

 この改革最中の天保五年十月に家老蟹江監 物、浅野大学病死のため嗣子の浅野直太郎、御勝手方物頭加藤左門など財務担当者二十二人が処分を受 けています。この中には後に明治維新後に藩政を牛耳る林太仲の父も含まれています。これは藩札発行を巡る争いで、家老近藤丹後によるクーデタでした。近藤 は御勝手方・御改革方主附に就任します。前田利幹は天保六年十月 に隠居し、前藩主の子息利保に後を託して翌年薨去しました。利保も富山入りした同年中、小右衛門へ丁重な書状で頼 んでいますが、諸藩からの依頼がひきもきらぬほど多忙の小右衛門が富山に四たび入ることはありませんでした。

 石田小右衛門による改革はある程度の増収を見ましたが、いかんせん演舌にとどまり、構造的赤字体質を変えるまでには至りません。結局家中・町在からの調 達と金銀札への依存を深めていきます。

 天保七年に大凶作がおき、同九年一月に近 藤丹後などが失脚し、三月に幕府から三万 両、翌年八月に二万五千両の供出を命ぜられました。どうにもならずに領民へ二千 石の五カ年間上納を依頼し、閏四月には家中に翌年までの半知借上げを命じます。家中は困窮にあえ ぎ、十二月藩は生活資金を貸与しています。これを知った幕府は天保十二年十月に参勤交代を免除するほどでした。

 前田利保は就封後に人材を登用し、産業養成と流通の円滑化を図り、資金を貸与することで利息収入を上げるなど諸政策を、反対をものともせず断行します が、確実に財政は破綻へと向かっていました。

『学遊らいふ』 Vol15(平成19年3月)

高岡町の敬業堂による「学び」の活動

 

藩政期の高岡が学問の町であったことは、多くの寺子屋や私塾・郷学があったことからも分 かる。町人は独自にサークルを作って、俳句や漢詩を詠み、儒学を学んで教養を高めていた。文化三年(1806)創立の修三堂は「生涯学習センター」の機能を有している。詩歌のサークルは主に詩亭で開 かれていた。博労町の臨江亭や白金町・関野神社前の養老軒(浄光庵)、坂下町の是性庵(春宵庵)等である。このうち養老軒を文政八年(1825)に改装・増築したの が敬業堂である。町奉行の大橋作之進(名・成之)は国内外の諸学に通じ、修三堂設立の経験がある町人達と力を合わせて、堂の設立に情熱を 注いだ。主事には守山町の梅染屋(桑山)武兵次(号・玉山)が就任し、11月1日に富山藩校廣徳館から小塚外守(名・之則、号・南郊)を招いて開講し、孝経を町人子弟に向け講じた。作之進も臨席したという。

 翌年正月には、煎茶人で明の音楽に通じた、八橋山通仙(名・方嵒、号・茶顛)による慶春楽の演奏会を主催し、孔子を祭る。新春のめでたさを喜び、町中は賑わいを見せ た。200年前の高岡には、まさに「生涯学習」が生活の中に浸透していたのである。

 

平成19年10 月20日 富山県民生涯学習カレッジ学遊祭で講演

加賀藩による富 山藩への内政干渉と直接統治

 

はじめに

 安政四(一八五八)年三月一日加賀藩藩主前田斉泰(文化八年七月十日~明治十七年一月十六日)は、江戸にいた富山藩主前田利聲(天保六年二月十七日~明 治三十七年二月十六日)に蟄居を命じ、富山藩政に本格介入を始める。その背景には富山藩財政の破綻による加賀藩への債務不履行の危険性、富山藩内部の派閥 対立等がある。加賀藩では上田作之丞の思想的影響を受けた長連弘等による、通称黒羽織一派が失脚し、商人支援の下で横山隆章が財政再建と海防に腐心してい た。ここでは富山藩の抱える諸問題を俯瞰しつつ、藩政後期の越中史を考察する。

 

一 富山藩の財政

 富山藩は十万石といわれるが、領有総高は寛文四(一六六四)年で十三万六千石余、俸禄を引いた実収総米二万八千石であり、中期頃には三万石程であった。 明治二年には四万六千石程に夫銀・小物成を加えて四万七千石程になる。収納米の内から二万石程を大坂に廻して現金化していた。新田開発に力を入れ、寛文四 年から明治三年までに約二万石以上の増加を見る。並行して家臣団の整理縮小に努め、明治二年までに一万石程を減らすことが出来た。

 しかしながら財政支出は拡大する一方であり、京・金沢・富山領内からの借財が嵩んだ結果、延宝三(一六七五)年の段階で約十二万石にもなる。そのため家 中から借知し、領民に上納を求めて補おうとするものの、幕府から普請手伝いが命ぜられ、元禄十四(一七〇一)年に銀札の発行を余儀なくされた。

 宝暦十三(一七六三)年に日光東照宮の普請手伝いで十一万両が必要になり、町・郡に割当て、大坂でも調達に腐心し、加賀藩に五万両を依頼して二万両のみ 融通できた。元禄十六年には大坂廻米が不足し、五千両の調達を十村へ指示する。このような状態であるため、債務者への返済が履行されず、明和八(一七七 一)年と安永九年(一七八〇)には訴えられる羽目になった。

 収入の増加を図るため、明和三(一七六六)年に人別銭を導入し一人一日一銭ずつ納めさせるが、天保二(一八三一)年の大火で城下八千三百戸余が焼失し、 城も炎上した。その後の復興策で借財が三十万両に膨れ上がり、翌年から財政再建を企図する(石田小右衛門の献作で上方商人に資金運用を依頼)。しかし預り 手形・藩札の操作は銭札発行を巡る疑獄事件に発展し、同五年十月家老蟹江監物以下二十二名が処罰された。この詮議にあたったのが家老の近藤丹後や御公事方 奉行の近藤主馬であったが、彼らもまた財政再建失敗の責任をとり、同九年正月に失脚する。

 

二、膨れ上がる借財 

①加賀藩への債務

 それでは富山藩は加賀藩にどれだけの借財があったのかというと、実は富山藩祖前田利次の時代からである。延宝三年時点で加賀藩への債務は銀千二百二十二 貫八百二十目・金一万両になり、この内銀六百九十貫八百二十目は利次時代の返済残である。次の正甫が正保二年七月五百三十二貫、翌年五月に一万両を借り、 年賦返済の計画を立てるものの、宝暦十三年の日光山霊屋・奥院の修復費、安永四年甲州の河川工事費、寛政八年江戸城西の丸大御奥向の修復費、享和三年と文 政六年に関東河川工事費を負担する羽目になり、計画の履行は困難になる。文政十年十二月に五千両、天保十年西の丸普請で幕府から二万五千両を要求されたた め八千両を頼み、嘉永四年に日光東照宮修復費の負担をせねばならず、五千両を依頼するが三千両だけ認められた。安政二年には大火のため千五百石を借り受け る。翌三年には債権者の矢倉九右衛門へ二万五千両の追加融資を依頼するが、累積負債をまず三千両は返済してもらわなければ貸せないといわれてしまい、翌年 五月に宗藩へ泣きつく。加賀藩では前田斉泰が会所奉行の反対を押し切り、肩代わりすることを決めた。

 安政四年閏五月の時点で加賀藩への債務は金一万九百五十両一朱・銀六匁三分九厘三毛・米千四百二十五石であり、毎年米は銀に換え千三百七十四両一歩一朱 ずつ返済する計画を立てる。同年は加賀藩が富山藩への直接介入を決めた年でもあった。

②飛騨商人への債務

困った藩は庵屋や北沢屋等の飛騨の商人から多額の融資を受けた。しかし富山藩には返済能力がなく、元利金三千二百二両・銀六百十四文四分を焦げ付かせてし まった。そこで飛騨の債権者達は、安永九年二月に幕府へ富山藩を訴える。この時は何とか二十五年賦で和解し、金五百四十一両を返済するものの、金二千六百 六十一両・銀六百十四文四分がまだある。寛政十(一七九八)年十月に債権者達は富山藩に借用証文を書き換えさせるが、年賦償還は一向に進まず、天保十(一 八三九)年には金四千九百九十七両・銀二十貫文を二十年賦で返済することにした。これも二年間は履行したものの、その後は返済不能に陥り、同十二年に債権 者達から江戸への出訴が通告されてしまう。慌てた藩は勘定奉行小嶋六郎左衛門と小柴権太夫を通じて、現在財政再建中であることを理由に猶予を嘆願し、併せ て飛騨商人から富山の町人や十村の名義で借りた。

③加賀・大坂商人への債務

 加賀粟が崎の木屋藤右衛門は御蔵米を担保に富山藩へ融資し、天明六年の未回収分が銀八百貫であった。寛政九年十二月に木屋と大坂の淡路屋太郎兵衛・堺の 酢屋利兵衛は共同で三千五百両を翌年返済の条件で融資することにした。しかし返済は出来るはずもなく、翌年正月富山藩が懇願して銀三百五十六貫四百五十六 匁を五年賦返済とする。更に藩は同十三年に収納米二万石の先買権を付与した見返りに新規融資を依頼する。享和二年十年賦で一万石の貸与を受けた。これらの 借財は文化元年時点で千五百七十貫七百七十五匁に達し、返済を迫られるが履行できず、ついに同五年訴訟に及ぶ。その結果、富山藩は淡路屋と酢屋への返済義 務履行を命ぜられるが、木屋は宗藩下の商人であることを理由に訴訟にも加われず、富山藩から会釈金百俵と二十人扶持の永久下付を得ることで、債権を放棄し た。

 

三 前田利聲の襲封と藩内の対立

 家中からの借り上げや町・郡からの調達は常態化し、嘉永元年には金殻方を設置して二万五千両を町人より調達し、四万両分の金札(一歩・二朱・一朱)を発 行する。これを家中や領民に月一割の利息で貸与した。これは江戸家老富田兵部と子息で実務を担当していた助作が断行したといわれる。同三年に寛裕講という 一口五両の頼母子をするといって家中・領民から金銭を集める。一方で同二年八月千歳御殿が竣工し、同四年日光普請手伝いで一万三千両が必要であった。

 このような難局の最中、藩主前田利友(天保五年二月一日~嘉永六年十二月十日)が薨去し、嘉永七(一八五四)年二月に弟の前田利聲が藩主に就くが、翌安 政二年二月に中野村で起こった火の手が富山町とその周辺五千八百余戸及び千歳御殿をも焼き、復興のため発行した金札が八万両に達する。これが金札相場の下 落を招き、通用停止の風聞から正金引替所に群衆が殺到したため、引替を停止して翌年に富裕商人発効の銀札と引き換えるなどして金札の回収に努め、通用を停 止させる。この混乱を憂慮した加賀藩は同二年七月十三日に政治向き諮問のため、篠原監物を派遣する。その直後の二十二日に家老寺西左膳は解任され、謹慎を 命ぜられた。追い詰められた富山藩では同三年八月に開物方を設置し、極貧の家中より俸禄を預り一日毎の給費制にしつつ、無尽講の名目で家中の知行三百石以 上には三割、以下には二割を借上げ、五年後に返却すると約した。惣奉行に浅野五郎左衛門を任じるものの消極的であったためこれを更迭し、江戸から堀田貫兵 衛を家老格(翌年二月家老)の開物奉行に任じて派遣した。しかし勘定奉行板津左兵衛等反対が多く、富山在住の御用番・家老は合議の上で江戸へ再考を願い出 る。江戸では十一月に利聲と老中阿部伊勢守正弘息女為姫との婚約が成立していた。

この頃の藩政は江戸家老の富田兵部が取り仕切っていたが、富山藩を十五万石の譜代にしたいと考えた富田が飛騨高山を預る工作をしていたため、高山郡代福王 三郎兵衛忠篤が、松井新五郎(禁木事件で牢死した惣兵衛の長男、後に番所へ復して惣兵衛を継ぐ)を通じて加賀藩の横山隆章に知らせ、警戒した横山が密偵を 派遣して内情を探らせていたともいう。その上貧困に喘いでいた富山在住の藩士達は利聲の父で元藩主の前田利保(寛政十二年二月二十八日~安政六年八月十八 日)の元で反発を募らせていた。利保は宗藩の前田斉泰に親子の不和と富田兵部への不満を相談したため、加賀藩では富山藩の内情探索に乗り出し、斉泰は安政 三年十二月十一日に書面を利聲に発して、嗣子慶寧(天保元年五月四日~明治七年五月十八日)と会うよう申し渡す。利聲は慶寧の所へ出向き、御居間書院で会 見するが、その席で慶寧は厳しく利聲の親不孝を詰り、説諭する。憤懣やるかたない利聲は二十一日に再び慶寧と対面し、表面的には教諭を受け入れたことに なっているが、その実は強く反発し、抗議したのである。

翌四年二月二十二日に前田斉泰は利聲の問題について藩内で協議し、三月一日に江戸の利聲へ加賀藩から「御病気ニ付、御引籠、得ト御養生」と申し渡し、富山 の利保へこの旨を伝えた。早速利聲は「御疳症之様」と断じられ「御養生」することとなり、四月六日に外出停止、阿部正弘息女との婚約も年末に破談となっ た。直ちに利保は利聲の代行として藩政に復帰、三月六日に前月退いていた浅野不観斎(五郎左衛門、長雄)を宗藩の意向で家老に復帰させ、富田兵部へ隠居・ 蟄居を命じることとなる。更に加賀藩へ「御縮方之為、当分御横目」の派遣を要請した。これを受けて四月一日津田権五郎が出立し翌日到着、四日に登城して利 保と会見した。この時横目に与えられた任務は富山藩家老の会議に出席し、介入はせず、見聞した内容を加賀藩へ報告する事にあった。そこで六日より隔日で家 老寄合所へ出ることにし、利保は四・八の日に出席するため、八の日には両者の会合がもたれたようである(「富山一件書抜」)。任期は半年であったが、津田 が病気になり、七月に土肥吉之丞と交替した。翌五年二月に福島鉄之助へ替わり、七月七日に横目の派遣を停止するが、福島はそのまま家老職として残った。利 保は家老富田讃岐等へ直書を示し、「上下一和」を強調する。富田兵部は四月二日に江戸を発し帰国の途につくが、駕籠の中で白装束に着替えて稲荷町筋違橋の 辺りで割腹する。富山藩では直ちに堀田貫兵衛や勝手方奉行、町奉行等五十一名を処分する。その中には兵部と不義が噂された利聲の母毎木も含まれていた(七 月七日に没)。この頃には短期間に家老が入れ替わり、不安定な藩政を象徴している。

林助八   安政四年一月~五年二月

堀田貫兵衛 安政四年二月~四月

浅野不観斎 安政四年三月再~十一月

和田縫殿  安政四年五月~五年十二月

蟹江監物  安政四年六月~十一月

戸田青海  安政四年十一月~五年十二月(元治元年十一月再)

富山はこの頃芝居・狂言や富突が盛んで、三味線の音も常にどこからか聞こえていた。一見すると繁盛しているようだが、加賀藩ではこれを「実以不融通金銭払 底ニ而芝居狂言も懸り之者渡世之為御指解之由」(「富山表風説書」)と認識していた。利保は倹約を自ら実践し、八月に家中の五カ年半知借上が命ぜられ、九 月に江戸の盛岡藩邸から高名な思想家佐藤信淵の子息佐藤昇庵を招いて産業政策に関し意見を聴し、乾物問屋等(布瀬松次郎綿種油株・綿種搗屋株・風鈴蕎麦夜 中歩行株・津出し油株)の株立を差し止め参入勝手とする。しかし同五年二月二十五日の大地震で甚大な被害が発生したのである。三月十日と四月二十六日には 常願寺川が決壊し、下流一帯の富山・加賀両藩領の家屋を押し流した。またコレラ等の疫病が発生し、加賀藩領の各地で一揆が頻発する。翌年四月にはロシア船 が伏木に無断進入し測量をするという事件も発生し、西猪谷と切詰の番所を厳戒下に置いた。領内収納米の外に見込米三千七百石上納を領民に求めたところ、多 くの農民から反発を受け、二千七百石を御用捨にせざるを得なかった。

 

四 加賀藩による富山藩政への直接関与

 富山藩では前田利保が藩政に復帰し、宗藩との一体化を図っていた。藩主後継問題の解決が急がれ、利保の子息清之丞(弘化二年一月二十九日~文久二年四月 二十五日)は幼少より足が不自由、利保の養父前田利幹には実子頼母(文化三年九月三日~明治三年一月二十日)、左京(文化五年三月二十七日~明治二年三月 二十日)、利種(文化七年一月二十四日~明治十年四月二十日)がいるものの、頼母と左京は隠居同様、利種(斉宮)は「御肝症」であった(明治五年八月に元 藩士の花房家へ養子)。また嘉永元年十月に頼母の嫡子則邦は若土を称し、左京の嫡子利信も花木初弥と称し、両名とも臣に下っていた。安政五年十二月には花 木初弥は家老に就任する。そこで利保は安政六年六月宗藩に、前田斉泰の九男稠松(安政三年六月二十七日~大正十年十二月二十三日、初名は茂松、徳川家茂を 憚り改名、後の利同)を藩主に迎えることを希望する。加賀藩では公儀の手前や世間体もあり、まず利保の弟頼母が相続し、利聲の嫡子栄之助(安政五年八月二 十二日~明治四十年四月六日、後に上野国前橋藩主松平直克の養子として直方と改名)を養子にすることも考えるが、最終的には稠松の就封を容れた。安堵した 利保は重病に陥り、八月十八日に薨去する。六十年の波乱に満ちた生涯であった。

新藩主に内定した前田利同(十一月就封)はこの時まだ三歳のため、藩内の分裂を押さえたい家老富田讃岐の要請を容れ、十月に加賀藩家老津田内蔵助が派遣さ れることになり、翌月丸之内にある村隼人の屋敷に軽装・軽人数で着任した。執事として瓜生幸左衛門も同行する。利同は同七年(万延と改元)一月二十一日に 江戸の加賀藩邸から富山藩邸へと移る。晴天であった。またこれに伴い同年より六年間加賀藩は富山藩へ毎年五千両ずつ助成し、借財返済も猶予されることに なった。翌年富山藩は八家の奥村河内守・前田土佐守・本多播磨守・奥村内膳等に白羽二重三反・鰍筋(鰹節か)七本、家老達に白羽二重二反・鰍筋七本ずつ目 録で贈った。なお津田の後任で富山詰めを前年に勤めた山崎庄兵衛には八丈島二反と雁二ツが贈られている。

赴任した内蔵助の役目は御寄合所の会議に常時出席し、その様子を金沢へ報告することにあった。しかし発言権も有していたため、富山藩ではこれを宗藩による 指導と捉え、安政七年正月に町奉行所より町年寄に宛て「御本家様にて御政事向万端御差図」を受けることが発表されている。津田は自身の家来ともども不作法 なく、万事質素を旨とし、富山家中の見本になることを心掛けたという。十月十日からは横目生駒権兵衛も派遣され、山王町の浅利伊兵衛宅に着任した。更に民 政面でも、文久元年三月に砺波郡十村荒木平助と射水郡十村折橋九郎兵衛(理三郎)が着任し、富山藩の十村を指導した。翌月郡方の請願事項は今後すべて派遣 十村に相談するよう申し触れている。また無尽講として導入していた積金講は沿岸防備のため基金を使い切り配当金は無いこと、掛け金は三十年賦で返却するつ もりであり、未加入者からは三十年賦で取り立てること、寛裕講は今後も行うが口数は安政五年の調達米返済に充てること、上納銭は返済しないこと、等が申し 渡された。

 宗藩からの家老は半年任期で詰めることとし、津田は万延元年閏三月に山崎庄兵衛と交替して離任、以降横山蔵人、青山将監、横山外記と続いて、文久二年八 月十九日に「御政事向追々御取締相立、御勝手向御仕法も相整」ったとしてその役目を完了し、以後は年に一・二度の見回りをすることにした。但し横目はその まま駐留し、この時は山路九郎兵衛であったのを、上坂太夫と交替する。二ヵ月後には両十村も引き揚げ、その功が認められてか荒木は十二月十三日に砺波郡無 組御扶持人へ昇任している。

 この加賀藩支配下で矢継ぎ早に懸案事項に取り組んだ。文久元年三月に家中へ知行高百石に付十五両の貸付、七月四方に御台場用地を取得、十月加賀・富山両 藩領の入り組んだ草島村の開発、郡奉行と改作奉行の任務分担を明確化、十一月肥物問屋の差止め、十二月長百姓格の差止め、安政三年に回収した紅白金札の残 りと町方の調達金三千七百両余を打ち続く天災等を理由に無効化、勘定所へ郡方頼母子一厘上納金の差出、翌年一月改作縮方条数四十七ヶ条の申し渡し、三月細 入・山田谷での硝石製造、五月西岩瀬と四方への貸付金返済の申し渡し、六月漆木の植樹(四万三千九百一本)、種痘所の設置、等である。この間にも、東海道 筋河川普請のため一万二千両の納入が、文久元年八月に幕府から命ぜられ(浅草御蔵請取火消役は大聖寺藩と交替)、五匁・八匁ずつを三年間軒別に付課せざる を得なかった。また金札廃棄と同時に調達金三千七百両の返済不能も触れられた。

 

五、加賀藩家老離任後の富山藩内

 宗藩の家老常駐が解除され、駐留経験の有る家老が出役として巡視に来ることになったが、富山藩の家老は加賀藩からの出役家老を慇懃に軽視していたようで ある。出役の横山蔵人と青山将監は藩に、富山の役人が金沢への伺いごとに自分達を通さず直接御用番へ伝えていることを指摘し、富山御用主附として支配一切 の委任を願い出ている。

 このような中で西洋式軍備の必要性と藩政刷新を訴えた山田嘉膳が栄進を重ね、同六年二月家老に就任する。山田はもと江戸蔵前町人の次男で筑後柳川藩士の 次男として養子に入った後、富山藩手廻組十人扶持の山田五助の娘婿になったという。算盤と企画能力に優れ、式台番から作事奉行に進んで江戸藩邸焼失の際に 功をあげ、三人扶持を加えて役人組若年寄支配となる。天保頃に簾番、聞番加人・八十石、頭役聞番、若年寄と進んで三十石を加え役料十人扶持になり、ついに 四百石と役知行三百石の家老へと昇ったのである。

代々の譜代で反対派の年寄滝川玄蕃は、入江民部・林太仲・千秋元五郎等の中下層藩士と結んで、激しく対立する。異例の昇進を成した山田には、自己の能力に 対する自惚れにも似た自信と、他を低く見る風があったのかもしれない。藩士達には江戸の家老が富山の家老を動かしていることへの反発もあったであろう。文 久三年五月二十五日に入江・林等六名は、連名で金沢御用部屋大村肴次郎を通じて、自身の藩ではなく宗藩の前田斉泰へ建白書を献じた。しかし待てども返事は 無く、元治元年七月一日じれた島田勝摩は山田嘉膳の登城を狙い、大手内堀近くで斬殺し、その首を宗藩横目服部兵左衛門の役宅へ持参し顛末を語った。この時 山田はたまたま馬を用いず徒歩で城へ上がる所であった。加賀藩は五月に富山藩の江戸家老近藤甲斐を富山で首座に就けている。宗藩出役家老の指導を受けさせ つつ、やがて近藤へ権限を委任し、前田慶寧が京から戻ったら不評の山田を解任するつもりであったともいう。捕縛された島田は翌年正月以来金沢の公事場で詮 議され、三月二日預けられていた青木三郎(祖父は青木北海で千秋の兄)邸で切腹。二十五歳であった。襲撃の理由を島田は、大槻伝蔵の二の舞を憂慮したから であると述べている。直接関係しなかった入江や林等は長崎行きを命ぜられ、そこで開眼し改革派に転じて滝川を排斥した。これらは全て宗藩の指図を受けたも のであった。なお敵討ちを拒んだ山田嘉膳の長男鹿之助は栃折村、次男の宮地?馬は谷内に流刑になったとされるが、真相は不明である。

この事件の直後である十二日に、加賀藩は横山と青山を富山御用主附に任じて支配方を委任する。翌年三月六日より十六日まで加賀藩家老前田典膳も見回った。 富山藩の財用方御用に加賀藩射水郡・砺波郡十村の安藤次郎四郎と高嶋庄右衛門が就任した。この宗藩による指導体制は明治元年六月まで継続され、林太仲達に 引き渡されるのであった。

 

おわりに

 富山藩の債務は、廃藩後に大蔵省へ引き継がれる。六十匁を金一円に換算し、総計六十四万五千五百九十一円であり、全国諸藩の平均三十九万円を祐に超える 金額であった。この内、天保末までの二百年間で三十四万五千七百六十七円を占め、幕府への債務や債権債務関係が不充分な額を入れれば四十八万円に及ぶ。こ れらの多くは幕府から課せられた普請費用の負担によるものであろう。弘化元年から慶応三年までの二十三年間には六万八千四十円にとどまり、全国平均六万二 千五百四十六円に近づいている。明治元年から四年末までの四年間は九万五千五百三十九円で、全国平均十三万千二百七十円を下回っているのである。この改善 に加賀藩の果たした役割は少なくないであろう。

 富山藩は立藩の時点ですでに藩としては無理があった。財政の多くを家中や領民、富裕層からの借財に頼り、返済負担を宗藩に肩代わりしてもらいながら、か ろうじて命脈を繋いでいたに過ぎない。一方で災害や疫病が多発し、異国の脅威に直面する幕藩末期にあっては、罹災者の救済と兵制の改編が急務となり、これ を補填するため産業の育成に努め、資金運用による利殖を図るが、破綻に至って宗藩の介入を招いた。急速な行財政改革は藩内の分裂を誘い、収束する頃には維 新を迎えていたのである。

富山藩にとって加賀藩は強大な支配者である反面、頼りになる宗家でもあり、最大限利用しようとしていた。加賀藩にとっての富山藩は緊急時のスペアである以 上の存在ではなく、厄介者でさえあった。このような相反する感情が、北越戦争での富山隊の活躍、その後の林太仲による宗藩からの内政独立に及び、富山県と 石川県に組替えられた現在に至るまで連続しているのかもしれない。

 

主な参考文献

坂井誠一『富山藩』(巧玄出版、昭和四十九年)

水島茂「富山藩政の諸問題」(『加賀藩・富山藩の社会経済史研究』文献出版、昭和五十七年)

栗原直隆「幕末維新期における富山藩政の動向」(『富山史壇』№50.51合併号)

田畑勉「富山藩の藩債累積高についての一考察」(『富山史壇』№73)

ロバート・G.フラーシャム「家老山田嘉膳暗殺の背景」(『富山史壇』№86.87合併号)

『富山県史』近世・近代の各通史編・史料編、年表

『富山市史』(昭和三十五年版、六十二年版)

『越中史料』巻ノ三(富山県、明治四十二年)

『町吟味所御触書留』(桂書房、平成四年)

『加賀藩史料』藩末篇上巻(前田育徳会、昭和三十三年)

「富山一件書抜」(富山県立図書館)

 

平成21年4月4日富山県高岡文化ホールで講 演

江戸時代の洪水

一、加賀藩の治水政 策

①川除普請

 慶長十四年(一六〇九)高岡城築城の頃、千保川は庄川より水量が多く防御上のみならず、交通路として有益であったが、出水して住民を苦しめることしばし ばであり、加賀藩は元和頃に能町川(庄川の別称)を開鑿して石瀬付近から能町を経て小矢部川へ落とす新川を作り、川跡を用水路に替えることを企図した。寛 永七年(一六三〇)の洪水で庄川が本流になり、千保川の水量は減る。従来の大船が木町に着けなくなるほどであった。しかし出水時には千保川への流入が急増 するため、同十年に千保川左岸で川除普請を指示し。正保二年(一六四五)に高岡で瑞龍寺が起工されるのに伴い、同四年洪水の被害を食い止めるため柳ヶ瀬 (柳瀬)に堤防を築いて、千保川の水を阻止する計画を立てた。二重の堤を持つ「桝形」の川除である。承応元年(一六五二)五月に祖泉で溢れた水が柳瀬の西 から秋元・西部金屋・吉住に入り、二塚村全体を流す洪水が発生、翌年藩は柳瀬川(千保川)から中田川(庄川)へ流量の過半を移すため、両川の分岐点で中田 川の川底を掘り下げる。十村の戸出村又兵衛と宮丸村二郎四郎は正月小松城の前田利常に年賀のため伺候した際、川除奉行深町弥右衛門の手伝役を命ぜられ、村 々を廻り、藩との連絡のため石動・小松へも出かけている。砺波郡・射水郡や氷見から延べ計約三万四千人を集め、五月から六月にかけ祖泉・柳瀬・秋元・西部 金屋一帯で土砂を除き、閏六月から八月にかけ川除を築いた。

 当時千保川は戸出・市ノ瀬の東(今の千保川筋)と春日吉江・西二塚の東(増仁 川)の二筋に分かれ、前田利常は千保川を根本的に弁才天前から締め切りたいとの意向を示した。しかしこれでは中村口・若林口・新又口の用水が不足すると十 村・肝煎連署が訴え、すでに千保川の水量は減っていて中田川に堰をかけ取水しているほどであり、着工は延期されるが、明暦元年(一六五五)四月に柳ヶ瀬の 堤防が切れ大洪水が発生し、二塚・二塚新村に大被害が出る。この時から千保川の水量が旧に復し、瑞龍寺(明暦二年大部分が竣工)保全のため前田利常は高岡 町奉行経験(寛永八年~承応元年)伊藤内膳を川除普請奉行に任じて工事を督励する。用水江下農民には江高百石につき五十人ずつ工事に出るように達し(水下 役)、それ以上の人数が必要の際には賃銀で雇い、水下役は一年に一回限りとした。これは現実的ではなかったようで、半数投入するのがせいぜいであり、万治 元年(一六五八)には百石につき三十人、銀二十枚に変更する。万治三年の洪水では中野宮村東の一里塚が流され、大清水村の御蔵が戸出村へ移築された。柳ヶ 瀬普請では藩費で材木・切石・鉄具を大量に使用し、千保川の河床を部分的に上げ(馳越)、一定量を越した水は川除を乗り越えて落とす方針を立てた工事を進 めた。そのため洪水ごとに川水は河床の浸食が激しい中田川へ移動する。寛文二・三年千保川が出水し、やがて現庄川の流路を形成した。同四年(一六六四)頃 は川水が中田川へ多く流れ、同九年の洪水で更に流量は増す。戸出村の舟渡守が中田村へ転じ、西保三ヶ村が東西に分かれた程で 、この川水が出水時に千保川へ大量に流入すると危険であるから、庄川を堤防で遮断する必要があった。そこで川除奉行の喜多岡所兵衛・安見瀬兵衛・馬淵市左 衛門・村田七郎左衛門・中村平六・大場源太夫は協議を重ね、翌年に柳ヶ瀬普請を断念して青島弁才天に桝形の大堤防を築造することにした。庄川の流れを中田 川のみに固定し、分流する千保川・新又中村川・野尻川を堤防で締め切るというもので、全長八百五十間(一五三〇m)、洪水に悩まされながら、延べ百万人以 上の労力で正徳四年(一七一四)に完成し、文化四年(一八〇七)以降に松を植え補強したところから、天保四年(一八三三)より「松川除(まつがわいけ)」 とも言われる。一番堤(前堰)は加賀藩の直轄工事(定検地)、二番堤は農民による請負工事であった。川除は次々と建設され、中野・太田・二塚・高岡・新湊 へと至る。

 このように加賀藩の治水方針は、弁才天前の松川除によって分流を遮断し、庄川 全川の水量を中田川だけに落水させるとともに川筋の堤防を強固にすることで、庄川河道を一本にして維持することにあった。しかし用水を利用する農民達は、 分流させることで洪水量を分割することが安定につながると主張し、藩の方針と真っ向から対立する。寛政八(一七九六)年に改作奉行が、庄川左岸松川除堤防 内に取水口を持つ七口を松川除に関係の無い上流の赤岩付近に合口させたい、との考えを示すと、野尻岩屋口用水利用者は、千保川へ三割・中田川へ七割分流し た方がよいと応じ、両者の主張は平行線を辿る。したがって藩の治水政策は不徹底のままであった。

②築堤の方法と維持

 石積と土盛で締め切り、蛇籠で護岸するというのが一般的な方法であるが、千保川を締め切る際は両岸から石堤を築いて川幅を狭め、鳥足を連結して上弦型の 弧を描いたように並べて連結させ堰切った。また用水の取入堰を川倉といい、聖牛や鳥足を堰の拠点に連ね、蛇籠や結柵・土俵をその間に並べて水勢を止め、粗 朶や筵などを用い砂礫を堆積させながら、川を斜めに横切って築いた。天保二年(一八三一)に庄川の洪水で破損した際には、十村は村役人へ竹の伐採を指示 し、不足分は河北郡から買い付ける手筈を整えるとともに、迅速に竹を到着させるため公用の印章木札十五枚を付して、小矢部川から岩武用水を船積みか川曳き して持ってくるよう命じている 。同十四年(一八四三)八月十日の洪水後に松川除を補修した際は、蛇籠製作用の竹を三十万貫余使用している。普請竹が各河川の相次ぐ補修で乱伐されたた め、天保末より長州より竹を移入する。安政五年(一八五八)に伏木・東水橋・東岩瀬へ長州竹三十万本が移入され、うち伏木が二十一万八千本を占めている。 これらは庄川等の普請に用いられた。

 松川除を維持するため、一番堤は定検地奉行により毎年春と秋に補修を行う。二 番堤は砺波郡・射水郡の水下百四ヶ村が水下銀で補修し、大規模なものは御納戸銀(藩費)や御郡打銀(一郡内)・諸郡打銀(藩内諸郡へ割り当て)を用いた。 藩は川除普請のため毎年銀二百五十貫は確保していたが、藩財政逼迫のため、文化十四年(一八一七)二月に二百貫に削減し、不足分は地元負担とした。天保十 三年(一八四二)に始まる三ヵ年の補強工事では、御納戸銀で施工しながら一部水下銀を使っているが、嘉永四年(一八五一)七月の補強時には水下銀のみで施 工している。水下銀は水下村々の草高で案分され、川からの恩恵を考慮して「丸」(全額)、「半」(半額)の区分があった。元治元年(一八六四)には原則的 に地元負担を廃止するが、その分を藩費で補うことはしなかった。

 川除普請は藩の制度上川除奉行が指揮監督する事になっているが、実質は十村が 江肝煎を通じて指示を出す。「越中諸代官勤方帳」によると、十村は洪水の時には江下農民を集めて川除を守り、欠損箇所に土俵や鳥足を作って組み入れ、枝葉 をつけたままの竹を伐採しくくり付けるなどして対処した。補修が大掛かりになる場合は江肝煎に図面を提出させ、川除奉行・改作奉行を通して藩へ請求する。 更に工事を急ぐ場合は十村が見積もりを提出し、御算用場の審議を経て川除奉行を通じて着工の許可が出る。竣工したら川除奉行が検査をした。工事は御普請会 所で決済して発注し 、十村や山廻りが監督、川除奉行が巡視する。江下農民による水下銀を使う自普請の場合は、十村が江肝煎から入用品の数量を見積もった申請書を受け取り、こ れに奥書して川除奉行へ提出した。しばらくすると入用品の下付があり、十村が監督して起工する。伐採が禁じられている木材を必要とする際には手続きをと り、竣工したら川除奉行へ報告した。このように十村と並んで江肝煎の役割は重要であり、それゆえ勤務状況がよくないと解任されることもあった。また川除普 請主附に任じられると現場を見回る必要から、宿賃等償銀の下付を受けた。

③洪水被災者への補償

 郡部においては、従来田畑に被害があった際には、改作奉行が見分して引高・変地御償米・変地勢子米・現銀御払米・変地貸付銀といった救済策がとられる。 田畑面積が減少した場合には、検地で土地の高自体を減らす(引高)。入川等で変地した所は収穫不能のため、その面積を測定して草高に直し、そこから二十分 の一を減じた残りの定納分を御算用場から切手を下附して補償する(変地御償米)。変地となった所を村で起こし返し、田地に復旧させるための補助を支給する (変地勢子米)。復旧のため無利息五ヵ年附で貸付銀する(変地貸付銀)。租米を持たない時には、御算用場から現銀を米穀切手に替えて支払いに充てる。まず 時価の七・八分を上懸銀の名で払い、翌月に当地の平均米価が公示されるので残額を支払う。その際一石につき一匁を加えた(現銀御払米)。安政六年の洪水で は、四日市村・荅野嶋村・上八ヶ新村・佐加野村・荅野出村・加嶋新村・岩坪村・嶋崎村・八口村・江道村・上八ヶ新村から変地の願出があり、翌年の万延元年 に上八ヶ新村等へ変地御償米が渡されている。同二年には八口村等へ変地勢子米が支給された。更に佐加野村・荅野出村・加嶋新村から五十石分、岩坪村から三 十石分、荅野嶋村から八石分、新谷開村から十石分、嶋野開村から五石五斗分の現銀御払米が申請されている。

二、洪水の実例

 宝永四年(一七〇七)六月二十一日 横田大橋が五月二十七日より架け替え工事 をしていた最中に千保川が出水し、高岡川原町等で二百八十五戸が浸水する。直ちに木町から二艘の渡船を出して往来の便宜を図った。一旦雨が止むが翌日夜か ら大雨になり、二十四日横田小橋を守るため高岡町奉行(石川主計・荒木六兵衛)と町役人(町年寄は三辺屋与一郎)が町人を動員して五百個の石を積み、高提 灯を掲げて警戒にあたる。翌日にも出水があり警戒するが、夜には減水したので警戒を解き、二十六日に町奉行が被災地を巡視した。大橋の工事場では中島町の 家際まで崩れたものの、普請奉行の山内権八と神子田孫三郎は普請を指示し、二十八日に竣工して町奉行へ引き渡した。翌日検査を終え昼九ッから橋は開通す る。

 享保十四年(一七二九)九月十三日 庄川で発生した洪水が千保川へ流入して市 野瀬新村が流失し、翌日には大門口宮村で場市川に入り、古戸出・東町端三戸が浸水する。市野瀬新村は九歩引免された。

元文二年(一七三七)二月二十六日 庄川の洪水が千保川に流入、戸出馬場町南の 遠所で二十三戸が被災し、御蔵近くまで浸水した。村肝煎は遠所普請方を郡奉行に願い出て、三月より九十日間かけて八間山の堤防を築いた。鳥足九十七個と籠 一万ほどを用いている。

 明和九年(一七七二)二月二十四日・三月七日 洪水で松川除が切れたため千保 川が増水し、高儀新村の御囲(貯木場)の上で出水、七十ヶ村に被害が出た。水は中村川跡や千保川跡でも田畑・人家を襲い、柳瀬・大窪・石丸・秋元・柳瀬 新・西部金屋で数十戸を水漬けにし、場市川・祖父川へ流れ込んで戸出を浸し、立野の方面へ進んで六家・内嶋・福田六ヶ・大源寺村まで流れ、射水郡北嶋村か ら小矢部川へ落ちた。被害は数百戸に及び、四戸が潰れ、五十二戸が半潰、多くの田地を失い、川筋の橋は流れ落ち、戸出・城端間、戸出・今石動間、立野・高 岡間は途絶した。三月十四日十村は連名で改作奉行に宛て迅速な復旧工事を願い、改作奉行は七月六日に工事の指示と三百貫を貸与する。安永五年(一七七六) には改修がなり、定検地奉行が村々を検分している。

 寛政元年(一七八九)六月十八日 庄川の洪水が千保川に流入し、石丸村で馬市 前の川除を破り馬市川・新又川に流れ込んで数ヶ村に被害が出た。閏六月七日にも千保川が出水し、中之宮村神子川橋・松木川橋を流す。古戸出の新田川橋と町 川橋は杭を打ち流失を防いだ。 

 寛政七年(一七九五)八月二十八日・二十九日 千保川が出水し、高岡の横田・ 中島に入り二ヶ所の橋を流す。庄川の堤が切れ容易には減水しなかった。高岡町奉行(中村求之助・岩田内蔵助)は木町に庄川と千保川へ二艘ずつ渡舟を出すこ とを指示し、仮舟橋を架けることを御算用場に申請して許可を取り付け、木町貯えの板で九月十一日に設営を開始しつつ、両橋を年末までに再建する計画を立て た。なおこの時に赤岩付近の井堰神社が社殿を流失する。

 天保十年(一八三九)四月二十六日 南風大雨で夜四ツ時には庄川淵の徳市村で 破堤し二塚村へ水が入り、千保川が溢れて横田大橋を押し流す。雨が止んでも水の勢いは強く、川辺の生屎納屋が流れ、麦・菜種の青田に泥が入る等甚大な被害 が発生した。藩は米代銀を浸水家屋へ六百七十四匁五分五厘・浸水田畑へ十七貫七百四十九匁九分五厘を十五ヶ年賦で貸与することにした。このうち、高岡町で は四十四匁九分七厘、隣接郡部で一貫百八十三匁三分三厘が給せられている。

 安政六年(一八五九)五月十八日 大吹雪で被害が出た前年に引き続きこの年の 気候も不順であった。五月十八日夜五ツ時より雨が降り出し、暁七ツ頃から雨脚が激しくなった。そのまま降り止まず、ついに昼九ツ過ぎに小矢部川・千保川・ 庄川等が一斉に出水した。富山藩領でも加賀沢村山嶺が崩壊して神通川を塞ぎ、二十日諸川が出水して水位は一丈二尺五寸に達して三千二百軒が浸水している。 高岡町では千保川が四ツ時に氾濫し、町役人が情報の収集に全力をあげた。町算用聞・他国出口銭取立役の三辺屋宗四郎(五十一歳)は千保川出水時に出張して 指図する役であり、町肝煎・町算用聞並の高原屋文九郎(三十五歳)より緊急の報告を受ける。町会所では町肝煎の澤田屋義作・中條屋六郎左衛門・濱屋金之 助・高原屋文九郎、地子町肝煎の鳥山屋次郎兵衛・加納屋彌平次、横田町肝煎の吉助が不在のため代番肝煎の吉野屋源吾を通じて被害状況の把握に努め、床上浸 水九十五軒・床下浸水二百十三軒等が判明した。被害は町奉行官舎近くにまで及んだが、水は夜八ツ半時より引き始め、町の人馬に被害はなく、橋も町々から勢 子を出して防いだため被害は無かった。町奉行や藩への報告は、町を代表して服部三郎右衛門・鷲塚屋八右衛門・高原屋文九郎が行った。

 目撃証言によれば、木町舟見番所・仲買小屋床敷より一尺ばかり水附、下河原辺 りが殊の外の水附であった。四津屋河原・長慶寺村等も水附し、太鼓・早鐘をつく。渡村も水附がみられた。また木町浜仮御腰掛所板敷より上へ一尺ばかり水が 上り、古老曰くこのようなことは五・七十年の間には無かったこと。近在では溺死人があったとも。木町では所々から助舟の依頼があるため、夜中も町役人が浜 舟橋番所に詰めた。幸い横田等の橋には被害が無かった。また下川原町などを舟で通行すると、千木屋町西福寺より八軒目まで水附であった。これは寛政七年以 来六十年ぶりの大洪水であり、金沢や冨山でも大水が発生し、新庄辺りでは昨年に引き続き家が流される被害があったという。

 立野村では家屋百戸等が浸水する。六月から七月にかけても雨が降り続き、佐加 野と立野では八月十三日の出水でも浸水し、高辻村では家が二軒潰れている。人的被害が発生したとの伝聞については、各地の記録を照合する限り、実際は無 かったと思われる。

三、千保川跡の開拓

 千保川筋はしばらくは新開が進まなかったが、耕土もたまりだし、文化十二年 (一八一五)より一斉に開拓が開始される。文政三年(一八二〇)に舟戸口用水が引かれて以降本格的に進み、天保九年(一八三八)から新村が立てられる。慶 応元年(一八六五)までに五千五百石の新開がなった。

暴れ川であった千保川は加賀藩の治水により流量を減らし、人々は川跡を用水に利 用しながら、新田の開拓を進めた。彦右衛門用水・西島用水・玉川大島用水・新村用水・亀島用水等は千保川を水源としている。河川流域に住む人々は、その地 にあって洪水に苦しみつつも、むしろ積極的に利用する強さを持っていたのである。

 

平成21年10 月4日 富山県民生涯学習カレッジ学遊祭で講演

富山藩の奥向き

はじめに

 大奥といえば、江戸城の大奥を思い浮かべる。本丸・西ノ丸・二ノ丸・三ノ丸では表・中奥・奥があり、特に西ノ丸には大御台所や御台所と仕える女中達が勤 務し、奥を大奥と称す。正式には御広式女中であり、それぞれの御広式には事務方として男が出仕しているが、大奥は将軍以外女で構成される。男で奥に入れる のは、九歳以下の子供と、許可を受けた医者や大工等に限られ、夜の六ツ時から朝の六ツ時までは施錠された。

 諸藩でもこれと似た奥組織が置かれる。「安永九年分限帳」によると、富山藩でも奥向き女中を御広式女中と称し、三ノ丸・西御屋敷・東御屋敷に分かれて置 かれたことが分かる。以下では藩政終盤期における富山藩の奥向きの様子と藩主家族について概観してみたい。

 

一、「安政七年富山御家中分限帳」にみる奥向き

①    女中

 富山藩の構成が分かるものとして、「安政七年富山御家中分限帳」がある。大殿様が前田利保、殿様が前田利聲(としかた)であるが、同六年十一月には、藩 主利聲は隠居を余儀なくされているので、名簿はその直前のものであろう。そこには次の御広式女中が記されている。

 

御広式女中

 六人半扶持 四十目一ヶ月雑用 

  御切府金拾両 弐拾目右同菜代   老女 

         七両毎歳被下金    花井

 弐人半扶持 三拾目一ヶ月雑用 

  御切府金七両 拾三匁右同菜代   若年寄女 

               沢野 

弐人半扶持 三拾目一ヶ月雑用   

  御切府金五両 拾三匁右同菜代   中臈女表使 

         四両毎歳被下金    筆野

弐人半扶持 三拾目一ヶ月雑用   

  御切府金五両 拾三匁右同菜代   中臈女 

                    美遠

 弐人半扶持 三拾目一ヶ月雑用   

  御切府金五両 拾三匁右同菜代   中臈女 

                    こと

  右同断             中臈女 

                    やさ 

   右同断             中臈女 

                    すか

弐人扶持 三拾目一ヶ月雑用   

  御切府金四両 拾匁右同菜代   御次女 

                    とく

 右同断         御次女

                                       くに

弐人扶持 三拾目一ヶ月雑用   

  御切府金四両 拾匁右同菜代   御次女格 

         壱両毎歳被下金    美那

壱人半扶持   弐拾五匁一ヶ月雑用   

  御切府金弐両弐歩 拾匁右同菜代   中居女 

                    関屋

壱人扶持  弐拾五匁一ヶ月雑用   

  御切府金弐両 拾匁右同菜代   末女 

                    明石

 右同断         末女 

                    若葉

 右同断         末女 

                    梅枝

 金壱両  一ヶ月雑用被下金  御次雇女

                    ませ

松現院様御附女   ※松現院とは前田利保の姫

 弐人半扶持 三拾目一ヶ月雑用 

  御切府金七両 拾三匁右同菜代   若年寄女 

               端山

大殿様 正姫様 御附女中  ※正姫とは利保の姫

 八人扶持  五十五匁一ヶ月雑用

  御切府金拾両 十三匁右同菜代  御側女

         金拾両毎歳被下金   美祢  ※利保側室の峰(なるみ)

 右同断            御側女 

                                津屋  ※利保側室の艶

 五人扶持   大殿様御附

  御切府金拾両  正姫様兼而

四十目一ヶ月雑用 老女

                 弐拾目右同菜代     澄井

  三人扶持   正姫様御附

 御切府金七両  大殿様兼而

三十目一ヶ月雑用 若年寄女 

十三匁右同菜代    磯江

弐人半扶持  正姫様御附

  御切府金五両  大殿様兼而

三十目一ヶ月雑用 中臈女 

十三匁右同菜代    まち

 右同断          中臈女

                       初

弐人扶持   正姫様御附

  御切府金五両  大殿様兼而    御次女

三十目一ヶ月雑用    さと

 右同断          御次女

                     浜

右同断   正姫様御附          御次女

         大殿様兼而            豊

右同断          御次女

                     ふさ

弐人扶持   弐拾五匁一ヶ月雑用  美祢附女

御切府金三両  十匁右同菜代      芳  

右同断          津屋附女

                    くめ

壱人扶持  弐十五匁一ヶ月雑用  末女 

御切府金弐両  十匁右同菜代      紅梅

      

 右同断           末女

                    紅葉

御裏支配女中    

 銀拾枚   大殿様御乳女  まん

 弐人扶持        きち

  三人扶持                浜野

  弐人扶持        か祢

  五人扶持  殿様御乳女  屋満

 

 御広式女中は江戸の上屋敷と富山城に置かれ、参勤交代のたびに移動する。ここに記した以外にどれだけの女中が働いていたかは分からない。扶持は御歩行と 同程度であり、老女・若年寄・中臈・御次・中居・末という職階があったことが見て取れる。側女とは側室であり、特別の扱いを受けている。表使は御広式の事 務方等と連絡を取る役であろう。御裏支配とは功労のある高齢女中への生活保障ではないか。この他に「安永九年分限帳」では、御仕立女や御茶間女・御洗物 女・御針女・髪結女等の専門職や御出入の「盲女」が記されている。

②    表の組織

 この時の藩政を取り仕切る年寄は、花木初弥(二十六歳、五百石・役知二百五十石)、富田讃岐(二十歳、三千石)、山田嘉膳(五十五歳、四百石・役知三百 石)、野村宮内(三十一歳、五百石・役知二百五十石)で、平均年齢が若い。

 花木初弥は前田利保の前に藩主であった前田利幹(としつよ)の子利親の嫡子利信で、嘉永元年十月に臣下として改名する。十年後の明治二年には花木兵庫親 信 の名で執政・会計主事に就いている。富田讃岐は御備頭でもあり、明治二年にも富田讃岐直照の名で執政・刑法主事に就いた。最年長の山田嘉膳は、文化二年江 戸浅草の商家に次男として生まれ、筑後国柳川藩士の養子を経て、天保頃にその才能を見出した富山藩士で十人扶持衣紋方山田五助純武の養子になる。天保六年 作事奉行、同七年江戸定番足軽頭、更に四百石の若年寄、安政六年には家老に、というような短期間で異例の昇進をし、加賀藩と協調しながら財政再建と西洋式 砲術の高島流による軍備の充実を図っていた。この後、嘉膳を嫌う島田勝摩により元治元年七月一日に登城途中の三ノ丸で斬られる事になる。

奥御用の若年寄は野村平内(五十歳、百四十石・役料二十枚十人扶持)で、寄合所加判御用人・奥御用所・大殿様御用部屋等を兼帯している。御広式奉行は杉林 弥三郎(三十九歳・百俵)、山川守三(四十三歳・十人扶持)、木村亘理(四十五歳・百四十石)が務めている。御広式横目には角尾荘太夫(五十六歳、六人扶 持・銀七十四匁五分)、松田太右衛門(五十四歳、七人扶持・銀二枚)、田添五太夫(五十三歳、二十五俵)、中川善次郎(五十五歳、十九俵)、田口永佑(四 十四歳、十八俵)の名があり、このうち角尾は御料理方を兼ねている。この他に、奥御用所筆役や奥御用所取次等が表の係であろう。

 

二、藩主と家族の暮らし

①    大殿様家族

 前田利保は寛政十二(一八〇〇)年二月二十八日に江戸で藩主前田利謙(としのり)の子として生まれ、文化八年閏二月に前田利幹(大聖寺藩から入り利謙の 娘 婿として藩主を務めていた)の継嗣になる。同十四年十二月従五位下出雲守、文政七年十二月従四位下に進み、天保六年十月家督を相続した。翌年の飢饉には領 民救済を指令し、在任中は藩内産業の育成に力を入れたが、藩財政は悪化の一途を辿っていた。弘化三年十月に退き長門守を称したが、嘉永六年十二月に跡を継 いでいた子息の前田利友が急逝し、安政二年の大火は富山を焼き尽くしただけではなく、金札相場の下落を招き、後を継いだ利友の弟前田利聲は藩内不和の責任 を取らされ同四年三月に加賀藩から「御病気ニ付、御引籠、得ト御養生」と申し渡されてしまう。そのため利保は政務に一時復帰し、事態の収拾を図った。

 富山藩主は本丸を住居にしていたが、正徳四(一七一四)年二月七日の火事で燃えたため、天保三年まで三ノ丸升形東出丸に居した。嘉永二(一八四九)年五 月 末に藩主を退いた前田利保は千歳御殿を造営して移るが、安政二年二月三十日の大火で御殿は灰燼に帰す。

正室 久美(又は延) 安政四年二月二十五日町奉行より触で御前様と 呼称する。広島の浅野斉賢の姫で、享和三(一八〇三)年生まれ。文政三(一八二〇)年 十二月に婚儀。江戸上屋敷に居し、利保薨去後に寶壽院と称した(明治十七年十月に神道式に寶壽)。同二十一(一八八八)年十一月二十二日に薨。

 産んだ子は十人。

 

 利鎮(とししげ)(文政四年八月二十日~十月二十六日)

 利謐(としさだ)(文政六年五月二十四日~同七年七月二十二日)

 ?(文政八年八月五日~同月十四日)

 ?(かた)(文政十一年五月二十日~天保十二年五月二十八日、十四歳)

 利文(としぶみ)(天保元年七月十八日~同二年三月二十九日)

 鍖(後に辰、天保三年九月二十五日~同五年四月十四日)

 ?(又は弘、天保六年四月十三日~明治九年九月七日、四十二歳)

 利暢(としのぶ)(天保八年二月十一日~同九年九月十六日)

 利到(としふね)(天保十年七月二日~同月二十一日)

 幸(天保十一年八月六日~同月二十九日)

 

 男子は一人として育たず、姫の中でも成人したのは?一人のみだが、それも母である寶壽院より早く薨じている。

? は嘉永五(一八五二)年二月十六日に数え十八歳で大聖寺藩の前田利義(としのり)に嫁す。利義は加賀藩主前田斉泰の三男で、天保四年二月十八日生まれ。 嘉永二年八月に十七歳で大聖寺へ養子に出て十月家督を相続し、十二月従五位下備後守、同四年十二月には従四位下へと進むが、安政二年四月二十日江戸にて薨 去。二十三歳であり、子は無かった。この後?は松現院と号した。「安政七年富山御家中分限帳」に記載があるところからすると、この頃に は富山藩に戻ってい たのかもしれない。

側室

●峰(又はなるみ) 実家は出羽国久保田の佐竹家藩士絲賀氏。後に慧月院と称す。子は八人。

 

 殊(天保十一年正月五日・江戸~同十二年六月十六日) 

 依(天保十二年四月十九日・富山~同十四年五月朔日)

 英(天保十三年五月三日・富山~弘化二年三月七日、三歳)

 利通(としみち)(清之丞、弘化二年正月二十九日・江戸~文久二年四月二十五日、十八歳)

 定(初美、弘化四年五月六日~大正七年七月二十二日、七十二歳)

 充(嘉永二年十月十六日・富山~同三年八月十八日)

 利章(としあきら)(嘉永四年六月十六日・富山~同五年八月三日)

 利龍(としたつ)(嘉永六年十一月十一日・富山~同七年九月二十二日)

 

 男子は十八歳が最高で他は育たず、姫のうち定のみが成人し得た。定は富山に居住し、元治元(一八六四)年十一月二日に十八歳で大聖寺藩主前田利鬯(とし か)に嫁した。藩はこの縁組について町奉行を通じ町年寄に説明し、輿入れに先立ち十月十五日四ツ時三社と鬼子母神天満宮へ参詣する。道筋は大手門から山王 町三社へ参詣し、大田口町・古鍛冶町・普泉寺前・寺町利生院・光厳寺横町・五番町・砂町・柳町・浄禅寺へと入る。帰りは、柳町・裏ノ橋・立町・八人町から 東ノ升形へと戻った。十一月六日卯ノ上刻に赤蔵前通り・白壁門・搦手門へ入り御広式玄関へ上りご挨拶、搦手門から南ノ升形へ出て越前町より助作門・船橋・ 船頭町・五福新町へと進み、大聖寺へ向けて発輿した。前田利鬯(天保十二年六月十二日~大正九年七月七日)は前田斉泰七男で、すぐ前田貞事の養子に出され たが、大聖寺藩で利義の後を継ぐはずであった兄の利行が薨じたため、安政二(一八五五)年十月に急遽十五歳で大聖寺藩主を襲封することになった。従五位下 飛騨守から翌年従四位下へと進み、明治二年六月からは藩知事となる。

●艶 江戸の武士渡辺二郎兵衛の娘で、後に心華院と称した。天保十四年閏九月九日に富山で女児を産むが翌日までの命であった。

●梅(又は毎木) 江戸橋本市三郎の娘。六人の子を産む。

 

 利繁(天保元年九月十日・富山~同年十月二十二日)

 利清(天保三年二月十二日・江戸~同十年二月三日)

 利友(天保五年二月朔日・江戸~嘉永六年十二月二十日、二十歳)

 利聲(としかた)(利由、天保六年二月十七日~明治三十七年二月十六日、七十歳)

 利雄(としかつ)(天保八年正月二十九日・江戸~安政三年正月晦日、二十歳)

 道(天保九年三月二十三日~同年十二月四日)

 

 このうち、利清は幼名を鉐之助といい、天保七年十月十三日に世嗣と定められたが、八歳で薨じた。毎木には悪評が多い。"息子の死を正室の呪詛によるもの と流布し、これを利保と生母の芳心院(前田利謙の側室)が諭したら、今度は利保のことを中傷した""天保十四年に利友が世嗣とされ、弘化三年十月に十三歳 で家督を相続し、従五位下・出雲守、嘉永元年十二月に従四位下へと進むが、この間に毎木は家老の富田大隈と通じて藩士の人事に介入した""大隈が退役し、 利友が薨じた際には枕もとで不幸者と嘆いた""継いだ利聲は母の意に従わないため、利保の悪口を吹き込み父子の不和を謀った""家老富田兵部と通じて藩政 を私し、利聲の入国を阻止しようとしたが事は露見、安政四年四月二日に兵部は割腹、毎木は五月十七日総曲輪に幽閉された"等。だが実際のところ、兵部は財 政運営を巡る藩内の対立と利聲の藩主権限停止に関わる責任から切腹に及んだのである。毎木にしても同年七月七日に没した際は、毒殺との噂もあるようだが、 紫雲院の号が付与され葬儀も丁重な扱いであった。

 利友は宗対馬守養方の妹と婚約していたが、果たされなかった。江戸の浪人加賀谷與助の娘雛路との間に薨去の年と翌年に子が出来るが、育たなかった。

利登(としたか)(健之丞、嘉永六年正月元日・富山~三月三日)  

胎児(男、嘉永七年二月二十日)

側室はもう一人いたようで、分限帳には智月院と華珠院の名が見られる。雛路はその後寺西左膳の嫡子学馬と結婚した。

奥の暮らし

 この頃の奥女中はどのような暮らしをしていたのであろうか。富山藩では記録がないが、江戸本郷の加賀藩江戸上屋敷の様子から推測できよう。本郷の敷地十 万 三千八百二十二坪の中に、奥向御殿が置かれ出入が厳重に管理されていた。女中の住まいは長局と称す。装身具や化粧道具にはガラス製や瑪瑙の玉飾りが付いた 簪、櫛や鬢盥、紅猪口を用い、白粉には化粧のりが良いと鉛入りの物を用いている。これが幼児死亡率の異常な高さの原因かもしれない。玩具として 木製の羽子板・刀・弓や操り人形、様々の形をした人形も置かれていた。七福神や天神はもとより、安産祈願の犬、三猿や庚申信仰として猿、咽喉のつまりを防 ぐための鳩笛等である。他にも、ままごと遊びの食器や台所道具、箱庭用の橋や塔・舟、更に天守閣や大手門等の小型模型もある。また鳥や犬をペットとして飼 育していたようである。犬には大型の西洋犬もいる。

詰人の食事には魚と鳥がよく出されている。魚は鯛・鯖・鮪・河豚・鰻・鮭・鯵・シイラ・鯰・鯉等で、国元からも取り寄せている。鳥は小鴨・中型鴨や雁で あった。

②    殿様家族

 前田利聲は天保六(一八三五)年二月十七日に江戸で生まれ、嘉永六年十二月に十九歳で兄利友を継承することになった。翌七(一八五四)年二月に家督を相 続 して、利由から利聲に改名し、十二月従五位下主計頭から従四位下大蔵大輔に進むものの、前記の理由から安政四(一八五七)年四月六日に「御疳症之様」と断 じられ「御養生」することとな り、四月六日に外出停止、老中阿部正弘息女との婚約も年末に破談となった。同六年十一月正式に藩主を退き、霽山(せいざん)と号す。明治三十五年六月に従 二位、同三十七(一九〇四)年二月十六日薨去。

 正室はいなかったが、側室はいたようである。在職中の安政五年八月二十二日に、利篤(としひろ)が生まれる。母は於練という。幼名は栄之助、上野国前橋 十 七万石松平直克の養子になり、直方と改める。養父直克は海防に務め、一時は政治総裁職に任じられる等多忙であったが、明治維新に際し官軍に帰順し会津攻め に参加する。継いだ直方は明治二年八月から同四年七月まで藩知事の任にあたり、生糸貿易の掌握に務める等、行政・財政の立て直しに尽力した。同四十年四月 六日に薨去。

 藩主退隠後の子は以下の通り。夫人は正妻ではなかったようで、於練の他に、林氏や稲垣氏が子をなしたという(「北陸政論」明治三十七年二月十九日)。

 

標(ひで)(万延元年一月三十日~三月一日)

専(せん)(慶応元年一月二十二日~明治二年六月二十四日)

聲智(かたとも)(毎吉郎、慶応二年四月十六日~昭和六年一月、六十六歳) 母は於練

 婦負郡富崎村本覚寺に入り藤岳慈仁と改め、その後に安井八郎の養子となり利仲と改。

利懿(祐之助、慶応三年十月十二日~昭和四年七月、六十三歳)

 加賀河北郡倶利伽羅光現寺寺尾家に入る。

孝丸(慶応三年十月三十日~大正十三年三月、五十八歳)

 東岩瀬養願寺朝倉家に入り、現英と改。

義(よし)(明治元年十月十八日~十一月十日)

苞(もと)(明治二年十一月十一日生まれ) 母は於練

 男爵三井八郎右衛門の夫人。

知(ちか)(明治二十年二月二十三日生まれ)

 子爵岩倉具明の夫人。

芳明(明治二十一年七月七日生まれ)

 同二十三年に男爵前田利武の養子、翌年四月に継いで利功と改名。

尚(明治二十二年八月一日~昭和四年八月二十五日、四十一歳)

 子爵石川成秀の夫人。

元邦(明治二十三年三月二十五日生まれ)

 大正十一年九月二十五日に林家をたてる。

春原(はるもと)(明治二十五年一月三十日生まれ)

 子爵内藤信任の養子になり、信利と改名。

照房(明治二十六年八月二十八日生まれ)

 大正十一年九月二十五日に兄の林家に入る。

正庸(明治二十八年三月十九日生まれ)

 大正十一年五月十三日に陸軍歩兵大尉として西シベリアに戦没。

絹(明治二十九年三月十八日~大正二年九月十九日、十八歳)

住(明治二十九年九月十八日生まれ)

 伴田六郎の夫人。

寛貞(明治三十年八月二日~十月五日)

 

 苞と知の間に十八年の開きがある。また利保の時代と異なり長命者が多い。

③    後継問題の解決

 前田利保は藩政に復帰し、加賀藩との一体化を図っていた。藩主後継問題の解決が急がれ、利保の子息清之丞(利通)は幼少より足が不自由、利保の養父前田 利幹には実子頼母(文化三年九月三日~明治三年一月二十日)、左京(文化五年三月二十七日~明治二年三月二十日)、利種(文化七年一月二十四日~明治十年 四月二十日)がいるものの、頼母と左京は隠居同様、利種(斉宮)は「御肝症」であった(明治五年八月に元藩士の花房家へ養子)。また嘉永元年十月に頼母の 嫡子則邦は若土を称し、左京の嫡子利信も花木初弥と称し、両名とも臣下に下っていた。安政五年十二月には花木初弥は家老に就任する。そこで利保は安政六年 六月加賀藩に、前田斉泰の九男稠松(しげまつ)(安政三年六月二十七日~大正十年十二月二十三日、初名は茂松、徳川家茂を憚り改名、後の利同(としあ つ))を藩主に迎えることを希望する。加賀藩では公儀の手前や世間体もあり、まず利保の弟頼母が相続し、利聲の嫡子栄之助を養子にすることも考えるが、最 終的には稠松の就封を容れた。安堵した利保は重病に陥り、八月十八日に薨去する。六十年の波乱に満ちた生涯であった。

 

三、奥女中の教養

 奥女中で、特に側室に上がる者には教養が求められた。京の歌人小沢蘆庵の門人でもある藩士弘中重義(号・自軒)は文化七(一八一〇)年の「片掛村大淵寺 道の記」(籠の渡しの試乗記)で、富山城奥女中たちの和歌を載せている。

自仙院 前田利與の側室で利謙の生母となる佳江(江戸の山田茂右衛門 娘)は、和歌や漢詩に興味を持ち、十村内山家の逸峯(はやみね)や二代藩主前田正甫の 子息内膳に学ぶ。寛政八(一七九六)年に呉羽山長慶寺の一隅に石見国人丸大明神境内の土を取り寄せ盛り土して堂を建て、人麿堂と名付け人麿神像を刻み安置 する。同十年「桜谷八景」二十四首一巻を作り奉納した。序を佐伯有融、跋を佐藤月窓が著す。

 桜谷晴嵐 立まがふ雲も嵐の桜谷 はれてぞ花の香にやめづらん

 岩瀬帰帆 うちよする岩瀬の波にまかせてや 真帆にてかへる沖の友船

 呉服秋月 秋風も大路の松に音ふけて くれはのさとを照す月かげ

 草島落雁 早穂ある田づらも広き草しばに むれてぞ落る天津雁がね

 立山暮雪 暮かかる空にわかれて降つみし 雪もはへある越のたち山

 百塚夜雨 むす苔のみどり深むる百塚に 小夜の時雨の音ぞ静けき

 舟橋夕照 山の端も波に入日のかげさして まばゆくわたる越の舟はし

 愛宕晩鐘 紅葉ばの色に日影は残しても くるる愛宕の鐘ひびくなり

菊薗 自仙院は文化七年十一月十二日まで存命であり、奥の女中たちは 感化されること大であった。前田利幹の側室八百(梅園、安政二年四月十五日没)もその 一人で、松平(松前かも)志摩守家臣佐々登の娘として生まれ、富山でも和歌を嗜み、飛騨国高山の国学者田中大秀に師事する。城中(廣徳館か)では自ら女中 や町方子女を集め、読・書を教えた。天保二(一八三一)年四月十二日の大火では三ノ丸升形東出丸にも火が移り、藩主家族一同が炎上する城を出て、布瀬十村 の高安家に避難するが、その時の様子を詳細に、かつ力強く記している。高安家の娘貞も教えを受け、後に砺波郡戸出の竹村屋に嫁いで、夫の没後に女児専門の 寺子屋を開いた。

 

おわりに

 富山藩の御広式女中の名を見ると、花井・沢野・筆野・明石・若菜・梅枝・澄井・端山・磯江・紅梅・紅葉・浜野、といった武家的なあるいは風流なものと、 こと・やさ・すか・とく・くに・ませ・まち・さと・ふさ・くめ・まん・きち、といった庶民的なものとがあることに気づく。それらが各職位に混在している。 もし出自を意味するのであれば、富山藩の御広式ではそれほど女中の出身身分には拘泥しなかったのかもしれない。

 側室になるまでにはどのような経緯があったのであろうか。前田利保の生母美須(芳心院)は江戸の町屋の娘であったが、行儀見習のつもりで富山藩上屋敷に 奉公に上がり、たまたま前田利謙正室の侍女に抜擢されたのがきっかけで「お手つき」となった、と思われる。では利保の側室はどうかと見れば、出身が他藩の 藩士や江戸者(旗本にはそれらしい名は無いので、御家人かもしれない)である。富山藩では女中を広範囲に募集していたのであろうか。

 それにしても藩主の子女が育たない。乳母や女中が付けた白粉の成分に鉛があったからとも考えられるが、疱瘡や麻疹への予防・治療方法も未発達で、藩医横 地元丈により種痘の方法がようやく伝わった程度である。また安政年間はコレラが猛威を振るっている。一般庶民の世帯数が三~五人であったことを思えば、子 供三人に一人が育つ程度であったのか。前田利聲の子息達の成長を見ると、明治前後で雲泥の差がある。やはり医療水準によるところが大きかったと思われる。

 富山藩の御広式女中の記録類はほとんど無いため、これまでほとんど顧みられることが無かったが、幕藩制の時代にあって奥向きは女の人たちが教養と礼儀、 実務能力を身につける場である。やがて宿下がりした後に嫁いだ先で、仕事や子育ての際に体得した能力を発揮できたであろう。

 

参考文献

『加賀藩史料 編外』(侯爵前田家編輯部、昭和八年)

『富山市史 第一巻』(富山市史編修委員会、昭和三十五年)

『富山県史 通史Ⅳ・近世下』(富山県、昭和五十八年)

『富山藩侍帳』(桂書房、昭和六十二年)

『富山藩士由緒書』(同、昭和六十三年)

『吉川随筆・前田氏家乗』(同、昭和六十三年)

『町吟味所御触留』(同、平成四年)

勝山敏一『活版師はるかなり 布告から薬袋まで』(同、平成二十年)

追川吉生『江戸のミクロコスモス 加賀藩江戸屋敷』(新泉社、平成十六年)

 

平成23年10 月8日 富山県民生涯学習カレッジ学遊祭で講演

富山藩の奥組織を作った女性たち

● 勝野

勝野は出雲国の赤尾三右衛門清正の娘で、慶長六(一六〇一)年に徳川秀忠の娘珠姫が三歳で金沢の前田利常(八歳)に輿入れした際に召し出される。

赤尾氏は古くより近江国伊香郡赤尾に在し赤尾を治めた。守護の京極氏に仕えていたが、血縁関係にある浅井氏の台頭とともに赤井清綱は浅井亮政の重臣とな る。浅井氏滅亡後に長男の清冬が因幡国鳥取の宮部継潤や長房に仕えたが、関が原で敗軍になり次男四郎兵衛が討たれる。嫡男三右衛門清正は関が原以後京極高 次に仕え、寛永十一(一六三四)年に高次の子忠高の出雲国松江に転封に従った。三男伊豆守も京極家臣として小浜城築城に才を見せている。

勝野は清正の娘であり、才女の評判はかねてより前田利長の耳にも入っていた。勝野は伊豆守の子主殿とともに利常と珠姫に仕えることになる。元和三年(一六 一七年)四月二十九日に利常の次男利次が生まれ傅役を任される。寛永十六(一六三九)年六月の分藩で兄たちと利次に従い富山へ赴き、富山城内の御広式を整 備し奥女中を束ねた。父の三右衛門清正も翌同十七年に利次の下に移り、五百俵・銀百枚の待遇を受ける(承応二年没)。長兄の弥三左衛門清治は三右衛門を襲 名し、明暦元(一六五五)年八月五百石で寺社奉行と町奉行を兼任した(延宝六年没)。次兄の覚太夫清長は利次の御馬廻として二百石、後に五十石増し呉服御 土蔵奉行等を務めた(寛文六年正月七日没)。

勝野の待遇は三十人扶持・金五十両であり、貞享二(一六八五)年まで存命であったというから、大変な長寿であったことになる。その跡は兄清治の孫甚左衛門 清房が養子の扱いで継いでいる。利次は勝野に先立つ延宝二(一六七四)年七月七日、江戸城で発病、享年五十八歳であった。なお清房の妹は前田正甫の側室と なり、天和二(一六八二)年八月一日に富山で蘭姫を産むが翌年七月二日に夭折、城を出て奥村杢左衛門具頼(四百石、寺社奉行や宗門奉行を歴任)に嫁した。

● 大局・表局

前田利家の弟藤八郎良之は、織田信長家臣で清州城代佐脇藤右衛門尉興世の養子となり、元亀二(一五七一)年十二月二十八日に三方ヶ原の戦いで討たれた。若 い妻はすでに浅井長政と織田信長妹市との間の長女茶々(後に淀君)乳母であり、その後次女の初が京極高次に輿入れするのに従う。大局と呼ばれていた。慶安 四(一六五一)年正月に没というから長寿である。

嫡男作右衛門も京極家に仕え、妻は前田利次の乳母として見出された。表局と呼ばれ、二百石の待遇を受け、江戸で没。子の数馬久好も九歳で前田利常に百五十 石で召し出され、利次に付けられた。富山へ従い六百石を受け、その後母の遺知と合わせて八百石となる。御先手頭・御馬廻組を務め、百石加増で寄合所加判・ 御城代に就任、二代正甫にも仕えている(延宝四年三月十九日没)。

● 八尾

前田正甫の母八尾の実家は、八尾東町笹原屋彦治(田畑家)であり、利次に見初められ側室になる。その関連であろうか義兄の柴田権之亟も勘定所支配・五十俵、五百歩の屋敷を拝領して出仕した(後に出家し以信を名乗る)。

以信の嫡男が武庫川家を継いだため後継がいなくなったのを八尾は憂い、以信の甥にあたる清九郎を呼び出し、養子として以信と暮らすよう説く。以信は七人扶 持を与えられ、宝永六(一七〇九)年に没。継いだ清九郎定友は翌年尾崎姓に改めた。八尾はこれを見届ける前、元禄九(一六九六)年十二月二十日に没してい る。

●  御局

武庫川家の出身で、富山城に出仕し、前田正甫の時に二百石の待遇で御局と称される。柴田以信の一人息子兵右衛門光昌を養子にし、宝永三(一七〇六)年三月八日に没。武庫川兵右衛門光昌は正甫の近習役として高田城接収に御供、その後遺知として百七十石を継ぐ。

●  前田利與の乳母(名は不明)

岡本嘉平治の姉は、元文元(一七三七)年十月十九日に富山で前田利隆の四男状之助(芸之助、後の利與)が生まれると乳母として選ばれ、江戸下屋敷惣女中筆 頭に就任、御擬作十人扶持・月に金三歩(分)宛・御給金二両一人扶持の待遇を受ける。兄の嘉平治も御擬作二十俵で中坊主組に入り利與に付き、宝暦十二(一 七六二)年十月に藩主に就任した利與の御供で江戸へ行く。明和六(一七六九)年正月に御徒組に転じたが四月に没。

利與は藩主に就任してから幕府からの御手伝普請に明け暮れ、財政の逼迫に苦しめられる日々であった。安永六(一七七七)年に隠居し、寛政六(一七九四)年八月二十二日、享年五十八歳。

翌同七(一七九五)年三月に奥女中の務めを全うし江戸屋敷から富山へ移り、同九年病気重く、三月中坊主組館野文之進の次男兵右衛門を養子にして十月に没。

 

(参考) 加賀藩 

●  幾佐

慶長十四(一六〇九)年に八歳で前田利家の娘千代姫(長姫とも、天正八年五月七日~寛永十八年十一月二十日、六十二歳)に仕える。千代姫は細川忠興の嫡男 忠隆と結婚するが離別し、村井長次に嫁ぐ。幾佐は千代姫卒後に前田利常から召し出され、小松に一年仕えた後、幼い綱紀の御付として江戸へ派遣された。この 時に今井と改め年寄女中に就任する。

 寛永八(一六三一)年六月病を得て、長谷川大学の三男を養子にする。その直後に没したか。大学の娘も養女にし、津田宗七郎に嫁いだ。養子は戸田小源太と 改め、寛文九(一六六九)年に五百五十石を拝領するが、同十三年九月に江戸で没する。この跡は延宝四(一六七六)年津田宗七郎次男鞆負直方が二歳で継ぎ、 元禄六年に七百石、同十二年に寄合へと進み、戸田斉宮を称す。

●  少将局

前田利家の正室まつ(芳春院)に召し出され、慶長十一(一六〇六)年に百五十石、元和三(一六一七)年にも百五十石を加え、後に少将局と呼ばれていたのを 妙正と改めた。夫の橘半入も百石で利常に仕え、妙正は寛永四(一六二七)年に没するが、甥の加藤治太夫を養子にした。治太夫超勝は小松代官や御郡奉行等を 務めた後、前田利次に従い富山へ移る(延宝五年没)。

●  お花之方

前田利太(宗兵衛、慶次郎)の娘は前田利長に仕え、お花之方と称した。兄の正虎(安太夫)は本阿弥光悦の門下で草書を能くし、風流人として能登で暮らしている。お花之方は後に有賀左京に嫁し、大聖寺藩士山本彌右衛門に再嫁した。

 

 

『富山藩侍帳』(桂書房、昭和六十二年)

『富山藩士由緒書』(同、昭和六十三年)

『吉川随筆・前田氏家乗』(同、昭和六十三年)

『加賀藩史料 編外』(前田家編輯部、昭和八年)

 

第五章 廃藩置県までの四年間

一、藩政期前後、 越中各地の結びつき

平成18年11月4日 ウイング・ウイング高岡

 

町・ 郡

 越中国は射水郡・砺波郡・新川郡そして富山藩領の婦負郡とに分かれ、ご承知の通りそれぞれに町部・郡部が含まれています。加賀藩・富山藩の治めていた時 期には、郡・主に農村社会においては、「村」というコミュニティーを形成し、それぞれが横や縦の関係で、有機的・重層的に結びついていました。村には肝煎 などの村役人いて利害を調整し、村がまとまり組になり、十村が管轄し、組内の利益を調整しました。また十村が集まり郡内の利益を調節し、といったように自 治が貫徹されていました。そして街道沿いや町続きの村が成長して、砺波郡の戸出や中田、市が開かれていた福岡など、村であるものの町として機能するところ も出来てきます。

 正式に町として認可されていた所は、砺波郡で今石動・城端、射水郡では高岡・氷見、新川で魚津などですが、それぞれ町会所で町人により行政が執行されて います。また高岡の町人は砺波郡・射水郡・新川郡をまたいで活動し、新川木綿を高岡商人が、西日本から原料の綿を仕入れて供給して、紡織した後高岡で染色 して移出していましたし、砺波郡の八講布も高岡商人によって販売されていました。さらに三郡の魚介類の管轄も高岡で行われていますし、砺波郡への肥料の多 くが、高岡町人の肥によるもので、川舟で庄川・小矢部川を移動し、伏木からは蝦夷から仕入れた鯡が肥料として砺波郡へ運ばれ、富山藩をまたいで 新川郡とも船で結ばれていました。

 富山藩は新川郡の一部と婦負郡から成っていて、富山町と郡部、ここには四方・西岩瀬・八尾という三宿が含まれていますが、加賀藩領と異なって藩士の存在 があるものの、やはり自治運営がなされていました。売薬は藩との協同運営で、全国的に有名になります。しかし藩政末には財政破綻で加賀藩の直接支配を受け入れ、民生面でも加賀藩領十村の指導を受けています。

 

文化の深化

 さて、自治という言葉ですが、加賀藩領には新川郡の一部を除いて、町奉行や郡奉行配下の藩士は少数に過ぎず、通常地方行政には直接関与しません。町や村 のことは住民が住民自身の手で執り行っていました。警察や藩末には防衛面までも担っています。この力を裏打ちしていたのが教育であり、教養でした。町・郡 の各地に寺子屋が開かれ、子供達は男女とも六・七歳ころから三・四年間ここに通って物の名前を書きながら文字を覚え、和算を学びました。謡を学科に入れて いたところもあります。更に私塾へ進む青年もいて、漢学や歴史認識を深めました。氷見では国学が学ばれ、新川では陽明学も教えられています。俳句・活花・ 書画などを趣味とする人々が増え、そういった教養が共通認識を形成し、論理的で冷静な議論をする基盤になっていったのでしょう。住民の学習機会を拡大する 後押しをしたのが、藩の後援を受けて設立した郷学という学習施設であり、ここでは儒学も学習会や講習会が開かれていました。高岡町では修三堂や敬業堂、高 岡学館が知られ、現在の公民館のような役割も果たしていました。町人が先生となり、町人を教えるという、学びあいの、いわば生涯学習を実践していたので す。高岡町では富山藩校の広徳館との付き合いが加賀藩藩校明倫堂よりも深く、教官を招いて講演してもらっています。また高岡町の人々はこういった学習活動 に、石門心学を取り入れ、町人・商人の倫理向上に努めました。皆さんご存知の孝子六兵衛などもその一つで、『修三湯話』(高岡湯話)に所収されている話であって、 心学の普及も目的にありました。富山藩では心学を藩が奨励して、勉強会を設けています。

 和算の知識は測量技術を向上させ、人々の生活を豊にしていきました。測量は旧新湊の石黒家が有名ですが、その測量器具を高岡町の職人が作成しています。 藩末には大筒の需要が増え、西洋砲と弾丸の鋳造が金屋に依頼されました。地下には埋設水道が敷かれ、また当時の三大疾病である麻疹・疱瘡・コレラは医学の 必要性と蘭学の知識の積極的な摂取につながります。藩政末に高岡町が尊王派の一大拠点となり、また海防に熱心であったことは、こういったことにも関連があ るのでしょう。

 

藩との関係

 次に考えたいのは加賀藩・富山藩と住民の関係ですが、現在であれば市と市民、県と県民という関係に置き換えることもできるでしょうが、先に触れたように 通常は村や町には干渉せず、しかしながら災害・飢饉・疫病発生などの緊急事態には、奉行に藩主から強権が付与され、住民をリードしました。被災者には当座 をしのぐため、家屋の建て直しのため無償もしくは御貸米・銀といった形で供与し、藩から医者を派遣しました。低所得者には生活資金が供与され、道路や橋・ 堤防などのインフラ整備は村や町の積立金を用いるのが通例でしたが、藩からも建設資金が支出されています。また農業や地場産業奨励の支援資金も供与されま した。もちろんこれらは税や地代、口銭などを元にしているのですが、これだけでは到底追いつかず、藩士への支給はカットされ、人件費は圧縮されていきます が、藩 政後期には外国の侵略に備え防衛力を備える必要に迫られ、御台場の建設、武装の近代化などに莫大な出費がかかりました。したがいまして財政赤字は慢性化 し、町や郡の人々から借金をして充当していたのですが、この返済は容易にはできません。

 明治維新の時には、加賀藩・富山藩とも、徳川家か薩長かで逡巡し、鳥羽伏見の戦いの後にようやく多額の寄付をして恭順し、北陸道鎮撫総督一行を迎えた り、北越に向けて出兵して長岡を陥としていますが、その際に高岡や越中各地より多数が進んで人夫として出ています。ここでも莫大な経費を費消し、負傷者や 戦没者の遺族年金を滞りなく支払い、その後に県へ引き継いでいます。

 藩の組織は明治2年に版籍奉還で一新し、藩治職制により全国一律の基準の下縦割組織に改められて、地方公共団体として位置付けられました。財政整理が進 行し、通貨の切 替と藩札の償還を急ぎ、残った債務は大蔵省や県へ引き継がれました。

 維新後のわずか4年間のうちに藩時代のコミュニティーの伝統が相当崩されています。神仏分離と特に富山藩で顕著でした合寺による秩序の混乱、十村等の村 組織の解体、新川郡では「ばんどり騒動」に見られる維新の気運、町ではそれまでの町人による行政組織の変更があり、さらには銀行が設立され、商人同士が結 合して商社を結成して、大きな資金で商売するようになりました。そのため、それまで続いていた由緒ある家が没落していきました。また商人が農村に土地をも つことが許され、藩政時代には農村の親作・小作は対等で、耕作地も一定年数経つとくじ引きで決めなおしていたのが、廃藩後に固定化した結果、町と村、村内 部の秩序が壊れ、紛争が多発しました。祭りの継承が困難になり、町や村のため、人々のため、といった徳目は、会社の利益追求の前に影が薄くなり、商いから ビジネスへと変化しました。町・村の自治組織が解消されて藩の組織に一本化されることに伴い、インフラ整備も国や地方へ依存するのがあたりまえになってい きます。歴史という人々の叡智の結晶を省みず、その時々の 「民主主義」というか「民衆主義」が進めば進むほど、実は不自由が増していくという矛盾に突き当たって、こういったことがその後発生する様々な問題の遠因 になり、現在へと引き継がれていくのですが、この件については別の機会と致しましょう。

 

二 平成18年11月13日 ラジオたかお か

 

 明治維新以後の四年間には、それまでの加賀藩の時代と異なり人々の意識が大きく変革して、物質文明は進んで便利になり、豊にはなったものの、心の面・文 化の面では異質になっていった過程をお話しました。加賀藩・富山藩ともに維新の波に飲み込まれ、北越に出兵し、長岡の城を落としました。これには高岡や氷 見、砺波などから多くの人夫が出動しています。その後に藩という組織が正式に一地方行政機関として認知され、組織が大幅に変わります。さらに諸産業の保護 的規制が撤去され自由化が進み、銀行ができて商店が手を組み株式会社を設立し、藩札が整理されて通貨が統一されます。知的財産の保護も行われています。ま た病院が設立されるなど社会保障面が進みますが、その過程で神仏分離・富山藩では合寺が断行されるなど、現在にもつながる革命的な事件もあり、明治二年の 飢饉は各地に騒ぎを起こし、新川ではばんどり騒動が発生します。一方で藩や民間の教育機関が設立されて、西洋の文物も入るなど、めまぐるしい時代です。

 

 1 高岡町と射水郡・砺波郡

 藩政期には高岡町は射水郡の内にありながら、氷見町とともに町として郡とは別の行政単位でした。砺波郡の杉木新町には出張所を設けてはあるものの、射水 郡と砺波郡はともに役所を小杉に置き、奉行は通常金沢に二名いて、それぞれ両郡の管轄を担当していました。なお氷見町は城端町とともに今石動で藩が管轄し ていました。それぞれ町や郡では、住民自身が利害調整に努め、行政を執行していますので、藩は直接これに関与することを、通常は遠慮していました。このよ うに明治維新前は射水郡と砺波郡は実質的に一体化していて、大火の際の火消の出動や事後の処理などは協力し、飢饉や疫病発生の時にも助け合っています。海 防を遂行するため編制された銃卒が所持するエンフィールド銃も、小杉で一括管理されていたほどです。人々の文化的・経済的なつながりも緊密でした。

 これを変更したのが、明治二年三月の職制の改組で、郡奉行所を廃止して民政寮の下に郡司局を置いて、郡奉行を郡宰に改めます。砺波には今石動と城端、射 水には高岡と氷見を附属させ、郡司局を高岡に置きました。それでもしばらくは射水郡と砺波郡は役人の人事面で一体でしたが、明治三年九月から両者が正式に 分離され、十一月には高岡と杉木に藩庁-正式に藩と名乗るのは版籍奉還・藩知職制以降のこと-の出張所を設置して、郡冶局は廃止されます。これで両郡が分 離されたのでした。従いまして、射水郡と砺波郡、高岡町は以前から親しい中であったわけです。

 それでは町や村の自治組織はというと、明治三年八月に由緒町人等の礼遇が廃止され、藩の組織である郡司局が行政機関へと変更されるにともない権限が縮小 されてしまいます。町人の代表として市長が任命されて、初代が富田本次郎、その後に石川次郎三・大橋與三市などが就任して、藩の組織との一本化が進みま す。廃藩置県以降の明治四年十二月に各町の町頭は廃止され、町中にあった産物会所も町役場へと移しました。郡方では十村による行政が解体され、明治三年十 月に郷長、翌月里正に改称するとともに、藩の機関が全般を掌握しました。こういった方法で町や村の自治組織は解体され、新たに編成された藩や県の行政機関 へと編入されていきました。

 2 町村合併

 明治四年一月から町に隣接する村を町へ併せる計画が進行します。井波町に松島・藤橋・北川・山見、今石動町に後谷村・福町村・上野本村・小矢部村・小矢 部島・寄島・坂又村・畠中村・桜町村、城端町に理休村と野田村、放生津中心に荒屋村・四日曽根村・放生津新村・長徳寺村・六渡寺村・三ヶ新村と石坂新村を 含む伏木を中心に古国府門前地・古府村を大合併して新湊町を形成、高岡町には横田村・内免新村・中川村を編入、氷見町に岩上・朝日新村・池田新村・加納出 村、魚津町に下村木村、滑川町に領家村・寺家村・高月村・田中村と滑川浦方・高月浦方、といった風に発表しました。しかし反対も多くて流れたり、解消した りして、現在へと至っています。

 

 このような動きについていかれない人々は、例え由緒のある家でも没落していきました。町や人々のためを第一にした礼節を持った商売が、大きな資金を動か す利益中心のビジネスへと変化していったのもこの頃からで、町や村で保たれていた秩序の崩壊が見られました。村では小作争議へとつながり、町からは同志的 な共通認識が失われていき、教養に裏づけされた文化が衰退しました。町の再生や活力ある高岡市・富山県づくりを考えるにあたり、歴史から学ぶところはとて も大きいし、学校教育で軽視してほしくないところです。

 明治以降の歴史が誤っているいるわけではない。それはその時代にあって、それぞれが真剣に国の発展を考え、植民地主義の世界の中で永遠の生存と平和を追 求していったのですから、肯定的に考えるべきでしょう。一方で私達は歴史の中から学ばなければならない。頭を垂れる真摯な気持ちを持ってほしい。塾生の皆 さんがこの講座でお知りになったことを、ぜひご家庭で、また各地域の方々に伝えてほしいと願って、今後もこういった活動を継続していく所存です。

 

三、加賀藩による富山藩への内政干渉と直接統治

 平成19年10月20日 教育文化会館

はじめに

 安政四(一 八五八)年 三月一日加賀藩藩主前田斉泰(文 化八年七月十 日~明治十七年一月十六日)は、 江戸にいた富山藩主前田利聲(天 保六年二月十七日~明治三十七年二月十六日)に蟄居を命じ、富山藩政に本格介入を始める。その背景には富山藩財政の破綻による加賀藩への 債務不履行の危険性、富山藩内部の派閥対立等がある。加賀藩では上田作之丞の思想的影響を受けた長連弘等による、通称黒羽織一派が失脚し、商人支援の下で 横山隆章が財政再建と海防に腐心していた。ここでは富山藩の抱える諸問題を俯瞰しつつ、藩政後期の越中史を考察する。

一 富山藩の財政

 富山藩は十万石といわれるが、領有総高は寛文四(一六六四)年で十三万六千 石余、俸禄を引いた実収総米二万八千石であり、中期頃には三万石程であった。明治二年には四万六千石程に夫銀・小物成を加えて四万七千石程になる。収納米 の内から二万石程を大坂に廻して現金化していた。新田開発に力を入れ、寛文四年から明治三年までに約二万石以上の増加を見る。並行して家臣団の整理縮小に 努め、明治二年までに一万石程を減らすことが出来た。

 しかしながら財政支出は拡大する一方であり、京・金沢・富山領内からの借財が嵩んだ結果、延宝三(一六七五)年の段階で約十 二万石にもなる。そのため家中から借知し、領民に上納を求めて補おうとするものの、幕府から普請手伝いが命ぜられ、元禄十四(一七〇一)年に銀札の発行 を余儀なくされた。

 宝暦十三(一 七六三)年 に日光東照宮の普請手伝いで十一万両が必要になり、町・郡に割当て、大坂でも調達に腐心し、加賀藩に五万両を依頼して二万両のみ融通できた。元禄十六年に は大坂廻米が不足し、五千両の調達を十村へ指示する。このような状態であるため、債務者への返済が履行されず、明和八(一七七一)年と安永九年(一七八〇)には訴えられる 羽目になった。

 収入の増加を図るため、明和三(一 七六六)年 に人別銭を導入し一人一日一銭ずつ納めさせるが、天保二(一八三一)年の大火で城下八千三百戸余が焼失し、城も炎上した。その後の復興策で借財が三十万両に膨れ 上がり、翌年から財政再建を企図する。しかし預り手形・藩札の操作は銭札発行を巡る疑獄事件に発展し、同五年十月家老蟹江監物以下二十二名が処罰された。 この詮議にあたったのが家老の近藤丹後や御公事方奉行の近藤主馬であったが、彼らもまた財政再建失敗の責任をとり、同九年正月に失脚する。

二、膨れ上がる借財 

①加賀藩への債務

 それでは富山藩は加賀藩にどれだけの借財があったのかというと、実は富山藩祖前田利次の時代からである。延宝三年時点で加賀藩への債務は銀千二百二十二 貫八百二十目・金一万両になり、この内銀六百九十貫八百二十目は利次時代の返済残である。次の正甫が正保二年七月五百三十二貫、翌年五月に一万両を借り、 年賦返済の計画を立てるものの、宝暦十三年の日光山霊屋・奥院の修復費、安永四年甲州の河川工事費、寛政八年江戸城西の丸大御奥向の修復費、享和三年と文 政六年に関東河川工事費を負担する羽目になり、計画の履行は困難になる。文政十年十二月に五千両、天保十年西の丸普請で幕府から二万五千両を要求されたた め八千両を頼み、嘉永四年に日光東照宮修復費の負担をせねばならず、五千両を依頼するが三千両だけ認められた。安政二年には大火のため千五百石を借り受け る。翌三年には債権者の矢倉九右衛門へ二万五千両の追加融資を依頼するが、累積負債をまず三千両は返済してもらわなければ貸せないといわれてしまい、翌年 五月に宗藩へ泣きつく。加賀藩では前田斉泰が会所奉行の反対を押し切り、肩代わりすることを決めた。

 安政四年閏五月の時点で加賀藩への債務は金一万九百五十両一朱・銀六匁三分九厘三毛・米千四百二十五石であり、毎年米は銀に換え千三百七十四両一歩一朱 ずつ返済する計画を立てる。同年は加賀藩が富山藩への直接介入を決めた年でもあった。

②飛騨商人への債務

 困った藩は庵屋や北沢屋等の飛騨の商人から 多額の融資を受けた。しかし富山藩には返済能力がなく、元利金三千二百二両・銀六百十四文四分を焦げ付かせてしまった。そこで飛騨の債権者達は、安永九年 二月に幕府へ富山藩を訴える。この時は何とか二十五年賦で和解し、金五百四十一両を返済するものの、金二千六百六十一両・銀六百十四文四分がまだある。寛 政十(一 七九八)年 十月に債権者達は富山藩に借用証文を書き換えさせるが、年賦償還は一向に進まず、天保十(一八三九)年には金四千九 百九十七両・銀二十貫文を二十年賦で返済することにした。これも二年間は履行したものの、その後は返済不能に陥り、同十二年に債権者達から江戸への出訴が 通告されてしまう。慌てた藩は勘定奉行小嶋六郎左衛門と小柴権太夫を通じて、現在財政再建中であることを理由に猶予を嘆願し、併せて飛騨商人から富山の町 人や十村の名義で借りた。

③加賀・大坂商人への債務

 加賀粟が崎の木屋藤右衛門は御蔵米を担保に富山藩へ融資し、天明六年の未回収分が銀八 百貫であった。寛政九年十二月に木屋と大坂の淡路屋太郎兵衛・堺の酢屋利兵衛は共同で三千五百両を翌年返済の条件で融資することにした。しかし返済は出来 るはずもなく、翌年正月富山藩が懇願して銀三百五十六貫四百五十六匁を五年賦返済とする。更に藩は同十三年に収納米二万石の先買権を付与した見返りに新規 融資を依頼する。享和二年十年賦で一万石の貸与を受けた。これらの借財は文化元年時点で千五百七十貫七百七十五匁に達し、返済を迫られるが履行できず、つ いに同五年訴訟に及ぶ。その結果、富山藩は淡路屋と酢屋への返済義務履行を命ぜられるが、木屋は宗藩下の商人であることを理由に訴訟にも加われず、富山藩 から会釈金百俵と二十人扶持の永久下付を得ることで、債権を放棄した。

 

三 前田利聲の襲封と藩内の対立

 家中からの借り上げや町・郡からの調達は常態化し、嘉永元年には金殻方を設置して二万 五千両を町人より調達し、四万両分の金札(一歩・二朱・一朱)を発行する。これを家中や領民に月一割の利息で貸与した。これは江戸家老富田兵部と子息で実 務を担当していた助作が断行したといわれる。同三年に寛裕講という一口五両の頼母子をするといって家中・領民から金銭を集める。一方で同二年八月千歳御殿 が竣工し、同四年日光普請手伝いで一万三千両が必要であった。

 このような難局の最中、藩主前田利友(天 保五年二月一 日~嘉永六年十二月十日)が 薨去し、嘉永七(一 八五四)年 二月に弟の前田利聲が藩主に就くが、翌安政二年二月に中野村で起こった火の手が富山町とその周辺五千八百余戸及び千歳御殿をも焼き、復興のため発行した金 札が八万両に達する。これが金札相場の下落を招き、通用停止の風聞から正金引替所に群衆が殺到したため、引替を停止して翌年に富裕商人発効の銀札と引き換 えるなどして金札の回収に努め、通用を停止させる。この混乱を憂慮した加賀藩は同二年七月十三日に政治向き諮問のため、篠原監物を派遣する。その直後の二 十二日に家老寺西左膳は解任され、謹慎を命ぜられた。追い詰められた富山藩では同三年八月に開物方を設置し、極貧の家中より俸禄を預り一日毎の給費制にし つつ、無尽講の名目で家中の知行三百石以上には三割、以下には二割を借上げ、五年後に返却すると約した。惣奉行に浅野五郎左衛門を任じるものの消極的で あったためこれを更迭し、江戸から堀田貫兵衛を家老格(翌年二月家老)の開物奉行に任じて派遣した。しかし勘定奉行板津左兵衛等反対が多く、富山在住の御用番・家 老は合議の上で江戸へ再考を 願い出る。江戸では十一月に利聲と老中阿部伊勢守正弘息女為姫との婚約が成立していた。 

 この頃の藩政は江戸家老の富田兵部が取り仕 切っていたが、富山藩を十五万石の譜代にしたいと考えた富田が飛騨高山を預る工作をしていたため、高山郡代福王三郎兵衛忠篤が、松井新五郎(禁木事件で牢死 した惣兵衛の長男、後に番所へ復して惣兵衛を継ぐ)を通じて加賀藩の横山隆章に知らせ、警戒した横山が密偵を派遣して内情を探らせていたともい う。その上貧困に喘いでいた富山在住の藩士達は利聲の父で元藩主の前田利保(寛政十二年二月二十八日~安政六年八月十八日)の元で反発を募 らせていた。利保は宗藩の前田斉泰に親子の不和と富田兵部への不満を相談したため、加賀藩では富山藩の内情探索に乗り出し、斉泰は安政三年十二月十一日に 書面を利聲に発して、嗣子慶寧(天 保元年五月四日~明治七年五月十八日)と 会うよう申し渡す。利聲は慶寧の所へ出向き、御居間書院で会見するが、その席で慶寧は厳しく利聲の親不孝を詰り、説諭する。憤懣やるかたない利聲は二十一 日に再び慶寧と対面し、表面的には教諭を受け入れたことになっているが、その実は強く反発し、抗議したのである。

 翌四年二月二十二日に前田斉泰は利聲の問題 について藩内で協議し、三月一日に江戸の利聲へ加賀藩から「御病気ニ付、御引籠、得ト御養生」と申し渡し、富山の利保へこの旨を伝えた。早速利聲は「御疳 症之様」と断じられ「御養生」することとなり、四月六日に外出停止、阿部正弘息女との婚約も年末に破談となった。直ちに利保は利聲の代行として藩政に復 帰、三月六日に前月退いていた浅野不観斎(五郎左衛門、長雄)を宗藩の意向で家老に復帰させ、富田兵部へ隠居・蟄居を命じることとなる。更に加賀藩へ「御 縮方之為、当分御横目」の派遣を要請した。これを受けて四月一日津田権五郎が出立し翌日到着、四日に登城して利保と会見した。この時横目に与えられた任務 は富山藩家老の会議に出席し、介入はせず、見聞した内容を加賀藩へ報告する事にあった。そこで六日より隔日で家老寄合所へ出ることにし、利保は四・八の日 に出席するため、八の日には両者の会合がもたれたようである(「富山一件書抜」)。任期は半年であったが、津田が病気になり、七月に土肥吉之丞と交替した。翌五年二月に福島 鉄之助へ替わり、七月七日に横目の派遣を停止するが、福島はそのまま家老職として残った。利保は家老富田讃岐等へ直書を示し、「上下一和」を強調する。富 田兵部は四月二日に江戸を発し帰国の途につくが、駕籠の中で白装束に着替えて稲荷町筋違橋の辺りで割腹する。富山藩では直ちに堀田貫兵衛や勝手方奉行、町 奉行等五十一名を処分する。その中には兵部と不義が噂された利聲の母毎木も含まれていた(七月七日に没)。この頃には短 期間に家老が入れ替わり、不安定な藩政を象徴している。

林助八   安政四年一月~五年二月

 堀田貫兵衛 安政四年二月~四月 

 浅野不観斎 安政四年三月再~十一月

 和田縫殿  安政四年五月~五年十二月

 蟹江監物  安政四年六月~十一月

 戸田青海  安政四年十一月~五年十二月(元治元年十一月 再)

富山はこの頃芝居・狂言や富突が盛んで、三 味線の音も常にどこからか聞こえていた。一見すると繁盛しているようだが、加賀藩ではこれを「実以不融通金銭払底ニ而芝居狂言も懸り之者渡世之為御指解之 由」(「富 山表風説書」)と 認識していた。利保は倹約を自ら実践し、八月に家中の五カ年半知借上が命ぜられ、九月に江戸の盛岡藩邸から高名な思想家佐藤信淵の子息佐藤昇庵を招いて産 業政策に関し意見を聴し、乾物問屋等(布 瀬松次郎綿種油株・綿種搗屋株・風鈴蕎麦夜中歩行株・津出し油株)の株立を差し止め参入勝手とする。しかし同五年二月二十五日の大地震で甚大な被害が発生した のである。三月十日と四月二十六日には常願寺川が決壊し、下流一帯の富山・加賀両藩領の家屋を押し流した。またコレラ等の疫病が発生し、加賀藩領の各地で 一揆が頻発する。翌年四月にはロシア船が伏木に無断進入し測量をするという事件も発生し、西猪谷と切詰の番所を厳戒下に置いた。領内収納米の外に見込米三 千七百石上納を領民に求めたところ、多くの農民から反発を受け、二千七百石を御用捨にせざるを得なかった。

 

四 加賀藩による富山藩政への直接関与

 富山藩では前田利保が藩政に復帰し、宗藩との一体化を図っていた。藩主 後継問題の解決が急がれ、利保の子息清之丞(弘化二年一月二十九日~文久二年四月二十五日)は幼少より足が 不自由、利保の養父前田利幹には実子頼母(文化三年九月三日~明治三年一月二十日)、左京(文化五年三月二 十七日~明治二年三月二十日)、 利種(文 化七年一月二十四日~明治十年四月二十日)がいるものの、頼母と左京は隠居同様、利種(斉宮)は「御肝症」で あった(明 治五年八月に元藩士の花房家へ養子)。 また嘉永元年十月に頼母の嫡子則邦は若土を称し、左京の嫡子利信も花木初弥と称し、両名とも臣に下っていた。安政五年十二月には花木初弥は家老に就任す る。そこで利保は安政六年六月宗藩に、前田斉泰の九男稠松(安政三年六月二十七日~大正十年十二月二十三日、初名は茂松、徳川家茂を憚り改名、後の利同)を藩主に迎える ことを希望する。加賀藩では公儀の手前や世間体もあり、まず利保の弟頼母が相続し、利聲の嫡子栄之助(安政五年八月二 十二日~明治四十年四月六日、後に上野国前橋藩主松平直克の養子として直方と改名)を養子にするこ とも考えるが、最終的には稠松の就封を容れた。安堵した利保は重病に陥り、八月十八日に薨去する。六十年の波乱に満ちた生涯であった。

 新藩主に内定した前田利同(十 一月就封)は この時まだ三 歳のため、藩内の分裂を押さえたい家老富田讃岐の要請を容れ、十月に加賀藩家老津田内蔵助が派遣されることになり、翌月丸之内にある村隼人の屋敷に軽装・ 軽人数で着任した。執事として瓜生幸左衛門も同行する。利同は同七年(万延と改元)一月二十一日に江戸の加賀藩邸から富山藩邸へと移る。晴天であった。またこれに伴い同年より 六年間加賀藩は富山藩へ毎年五千両ずつ助成し、借財返済も猶予されることになった。翌年富山藩は八家の奥村河内守・前田土佐守・本多播磨守・奥村内膳等に 白羽二重三反・鰍筋(鰹 節か)七 本、家老達に白羽二重二反・鰍筋七本ずつ目録で贈った。なお津田の後任で富山詰めを前年に勤めた山崎庄兵衛には八丈島二反と雁二ツが贈られている。

 赴任した内蔵助の役目は御寄合所の会議に常 時出席し、その様子を金沢へ報告することにあった。しかし発言権も有していたため、富山藩ではこれを宗藩による指導と捉え、安政七年正月に町奉行所より町 年寄に宛て「御本家様にて御政事向万端御差図」を受けることが発表されている。津田は自身の家来ともども不作法なく、万事質素を旨とし、富山家中の見本に なることを心掛けたという。十月十日からは横目生駒権兵衛も派遣され、山王町の浅利伊兵衛宅に着任した。更に民政面でも、文久元年三月に砺波郡十村荒木平 助と射水郡十村折橋九郎兵衛(理 三郎)が 着任し、富山藩の十村を指導した。翌月郡方の請願事項は今後すべて派遣十村に相談するよう申し触れている。また無尽講として導入していた積金講は沿岸防備 のため基金を使い切り配当金は無いこと、掛け金は三十年賦で返却するつもりであり、未加入者からは三十年賦で取り立てること、寛裕講は今後も行うが口数は 安政五年の調達米返済に充てること、上納銭は返済しないこと、等が申し渡された。

 宗藩からの家老は半年任期で詰めることとし、津田は万延元年閏三月に山崎庄兵衛と交替 して離任、以降横山蔵人、青山将監、横山外記と続いて、文久二年八月十九日に「御政事向追々御取締相立、御勝手向御仕法も相整」ったとしてその役目を完了 し、以後は年に一・二度の見回りをすることにした。但し横目はそのまま駐留し、この時は山路九郎兵衛であったのを、上坂太夫と交替する。二ヵ月後には両十 村も引き揚げ、その功が認められてか荒木は十二月十三日に砺波郡無組御扶持人へ昇任している。

 この加賀藩支配下で矢継ぎ早に懸案事項に取り組んだ。文久元年三月に家中へ知行高百石 に付十五両の貸付、七月四方に御台場用地を取得、十月加賀・富山両藩領の入り組んだ草島村の開発、郡奉行と改作奉行の任務分担を明確化、十一月肥物問屋の 差止め、十二月長百姓格の差止め、安政三年に回収した紅白金札の残りと町方の調達金三千七百両余を打ち続く天災等を理由に無効化、勘定所へ郡方頼母子一厘 上納金の差出、翌年一月改作縮方条数四十七ヶ条の申し渡し、三月細入・山田谷での硝石製造、五月西岩瀬と四方への貸付金返済の申し渡し、六月漆木の植樹(四万三千九百一 本)、 種痘所の設置、等である。この間にも、東海道筋河川普請のため一万二千両の納入が、文久元年八月に幕府から命ぜられ(浅草御蔵請取火 消役は大聖寺藩と交替)、 五匁・八匁ずつを三年間軒別に付課せざるを得なかった。また金札廃棄と同時に調達金三千七百両の返済不能も触れられた。

 

五、加賀藩家老離任後の富山藩内

 宗藩の家老常駐が解除され、駐留経験の有る家老が出役として巡視に来ることになった が、富山藩の家老は加賀藩からの出役家老を慇懃に軽視していたようである。出役の横山蔵人と青山将監は藩に、富山の役人が金沢への伺いごとに自分達を通さ ず直接御用番へ伝えていることを指摘し、富山御用主附として支配一切の委任を願い出ている。

 このような中で西洋式軍備の必要性と藩政刷新を訴えた山田嘉膳が栄進を重ね、同六年二 月家老に就任する。山田はもと江戸蔵前町人の次男で筑後柳川藩士の次男として養子に入った後、富山藩手廻組十人扶持の山田五助の娘婿になったという。算盤 と企画能力に優れ、式台番から作事奉行に進んで江戸藩邸焼失の際に功をあげ、三人扶持を加えて役人組若年寄支配となる。天保頃に簾番、聞番加人・八十石、 頭役聞番、若年寄と進んで三十石を加え役料十人扶持になり、ついに四百石と役知行三百石の家老へと昇ったのである。

 代々の譜代で反対派の年寄滝川玄蕃は、入江 民部・林太仲・千秋元五郎等の中下層藩士と結んで、激しく対立する。異例の昇進を成した山田には、自己の能力に対する自惚れにも似た自信と、他を低く見る 風があったのかもしれない。藩士達には江戸の家老が富山の家老を動かしていることへの反発もあったであろう。文久三年五月二十五日に入江・林等六名は、連 名で金沢御用部屋大村肴次郎を通じて、自身の藩ではなく宗藩の前田斉泰へ建白書を献じた。しかし待てども返事は無く、元治元年七月一日じれた島田勝摩は山 田嘉膳の登城を狙い、大手内堀近くで斬殺し、その首を宗藩横目服部兵左衛門の役宅へ持参し顛末を語った。この時山田はたまたま馬を用いず徒歩で城へ上がる 所であった。加賀藩は五月に富山藩の江戸家老近藤甲斐を富山で首座に就けている。宗藩出役家老の指導を受けさせつつ、やがて近藤へ権限を委任し、前田慶寧 が京から戻ったら不評の山田を解任するつもりであったともいう。捕縛された島田は翌年正月以来金沢の公事場で詮議され、三月二日預けられていた青木三郎(祖父は青木北海 で千秋の兄)邸 で切腹。二十五歳であった。襲撃の理由を島田は、大槻伝蔵の二の舞を憂慮したからであると述べている。直接関係しなかった入江や林等は長崎行きを命ぜら れ、そこで開眼し改革派に転じて滝川を排斥した。これらは全て宗藩の指図を受けたものであった。なお敵討ちを拒んだ山田嘉膳の長男鹿之助は栃折村、次男の 宮地?馬は谷内に流刑になったとされるが、真相は不明である。

 この事件の直後である十二日に、加賀藩は横 山と青山を富山御用主附に任じて支配方を委任する。翌年三月六日より十六日まで加賀藩家老前田典膳も見回った。富山藩の財用方御用に加賀藩射水郡・砺波郡 十村の安藤次郎四郎と高嶋庄右衛門が就任した。この宗藩による指導体制は明治元年六月まで継続され、林太仲達に引き渡されるのであった。

おわりに

 富山藩の債務は、廃藩後に大蔵省へ引き継がれる。六十匁を金一円に換算し、総計六十四 万五千五百九十一円であり、全国諸藩の平均三十九万円を祐に超える金額であった。この内、天保末までの二百年間で三十四万五千七百六十七円を占め、幕府へ の債務や債権債務関係が不充分な額を入れれば四十八万円に及ぶ。これらの多くは幕府から課せられた普請費用の負担によるものであろう。弘化元年から慶応三 年までの二十三年間には六万八千四十円にとどまり、全国平均六万二千五百四十六円に近づいている。明治元年から四年末までの四年間は九万五千五百三十九円 で、全国平均十三万千二百七十円を下回っているのである。この改善に加賀藩の果たした役割は少なくないであろう。

 富山藩は立藩の時点ですでに藩としては無理があった。財政の多くを家中や領民、富裕層 からの借財に頼り、返済負担を宗藩に肩代わりしてもらいながら、かろうじて命脈を繋いでいたに過ぎない。一方で災害や疫病が多発し、異国の脅威に直面する 幕藩末期にあっては、罹災者の救済と兵制の改編が急務となり、これを補填するため産業の育成に努め、資金運用による利殖を図るが、破綻に至って宗藩の介入 を招いた。急速な行財政改革は藩内の分裂を誘い、収束する頃には維新を迎えていたのである。

 富山藩にとって加賀藩は強大な支配者である 反面、頼りになる宗家でもあり、最大限利用しようとしていた。加賀藩にとっての富山藩は緊急時のスペアである以上の存在ではなく、厄介者でさえあった。こ のような相反する感情が、北越戦争での富山隊の活躍、その後の林太仲による宗藩からの内政独立に及び、富山県と石川県に組替えられた現在に至るまで連続し ているのかもしれない。

主な参考文献

坂井誠一『富山藩』(巧 玄出版、昭和 四十九年)

水島茂「富山藩政の諸問題」(『加 賀藩・富山 藩の社会経済史研究』文献出版、昭和五十七年)

栗原直隆「幕末維新期における富山藩政の動向」(『富山史壇』№50.51合併 号)

田畑勉「富山藩の藩債累積高についての一考察」(『富山史壇』№73)

ロバート・G.フ ラーシャム「家老山田嘉膳暗殺の背景」(『富山史壇』№86.87合併 号)

『富山県史』近世・近代の各通史編・史料編、年表

『富山市史』(昭 和三十五年版、六十二年版)

『越中史料』巻ノ三(富 山県、明治四 十二年)

『町吟味所御触書留』(桂 書房、平成四 年)

『加賀藩史料』藩末篇上巻(前 田育徳会、昭 和三十三年)

「富山一件書抜」(富 山県立図書館)

第六章 越中国の思想史

 

一、高岡町人の生涯学習

  平成19年11月4 日 ウイング・ウイング高岡5階

 

高岡におけ る石門心学

 旧高岡町は商人の町といわれますが、元来高岡町人 の多くは武士でした。前田利 長が金沢へ戻った折、残留した人たちが町人になったという話が多く残っています。そのため尚武の気風がしばらく残っていたと思われます。 商売は単に高く 売って儲ければよいというものではないことは言うまでもないことですが、この時代必ずしもそういった商売倫理が徹底されていたわけではなかったようです。 上方で享保年間に石田梅岩による石門心学が誕生しました。町人には町人の道があり、商人には必要な物品を行き渡らせる役割があるので社会に必要不可欠であ り、商売の利益は武士の俸禄と同様であると断じます。また商人には、不当な利はいけない、正直が大切なのだ、売り物に念を入れて粗相せず売れば、品物がい いのだから買う人もお金は惜しまない、ただ売り切ればいいのではなく無駄にせず、本当に必要な人へ行き渡るようにしよう、と説きます。この考え方は全国に 広まりまして、越中国にも入っています。

 高岡町でこれを推進したのが、横町屋富田家の富田 徳風を初めとする人たちでし て、徳風は国学も修めています。文化三年に影無しの所に設立した修三堂という、公民館のような生涯学習施設があるのですが、ここに心学で高名な脇坂義堂を 招いて講座を開きました。年齢や職業を問わず、多くの町人が聞きに来て、高岡町に商人の倫理改善キャンペーンが展開されます。皆様ご存知の『修三堂湯話(高岡湯話)』はそのために編まれ たのでして、隣国の聖 人以外でも身近にこんな偉人がいるのだ、この人たちから学ぶことは多いのだ、ということを方言交じりの口語文で書いてあるのです。孝子六兵衛や節女きみ等 が有名ですね。なお、脇坂義堂は親子関係の大切さと躾についても説いた人です。

 

郷学機関での学習

 今、修三堂についてお話いたしましたが、修三堂の 開講式には海保青陵という著 名な学者を招いています。青陵は丹後宮津藩の江戸家老を務める家に生まれ、藩を離れてからは全国を廻り、招かれて加賀藩にもやってきました。藩による産業 の育成を持論にする政策化でもあります。この海保青陵は修三堂で『論語』を論じ、『老子』や『中庸』等を講じました。今の人には難しく思われ、それに教養 を軽んじる風がありますから見向きもしないのでしょうが、この当時は教養こそがすべての道に通じると考える人々が少なくなく、広範囲の地から青陵に学ぼう と集まってきました。富山や新川郡・砺波郡にも訪れて、福野では『書経』の「広範」、即ち指導者の治めるべき道を説いています。また上牧野では「八宮樸館 塚」の銘を撰しています。

 修三堂の掲額や町の時鐘の銘を認めたのは皆川淇園 です。弟は言霊派の国学者富 士谷成章で、淇園の門人が富田徳風や三木屋の寺崎?洲でして、高岡町にも訪れたようです。修三堂では様々な学習活動が行われていまして、百余人は常に利用 していたといいます。また高岡では越後柏崎の原松洲も招かれて講義しています。

 次に生涯学習センターとして作られたのが敬業堂で して、文政八年町奉行の大橋 作之進と梅染屋武兵次こと桑山玉山が尽力して、白銀町の節女きみの史跡で詩亭の養老軒を建て直して設立しました。修三堂と活動時期が重なっていた期間もあ りまして、高の宮をはさんで両堂が並立して機能していたのです。敬業堂は富山藩から広徳館の小塚外守を招いて開講式をしまして、ここでは音楽会も開いたよ うです。京から煎茶人の八橋山通仙という明楽の名手を招いて、慶春楽など孔子を祭る演奏会をしたのだそうです。高岡からは八橋山に入門する人もいました。 また漢詩の講座を高沢達を招いて開いています。

 しかし天保になると町の財政が苦しくなり、米価が高騰して、天保七年の大凶作が飢饉をもたらします。そのためこのような準公的な郷学機関は自然、活動を 停止せざるを得なくなりました。

民間での学習 会

 それでも民間では学習活動が盛んに行われていま した。寺子屋が急増するのは 天保頃からですし、町人たちの学習活動は高岡だけではなく、氷見でも砺波郡でも活発です。このときに公民館の役割を果たしていたのが寺の講堂等でして、文 化十一年にはすでに安乗寺で『孟子』や『唐詩選』等をテキストに学習会を開いています。この時は富山から富山藩眼科医の島林文吾が講師として招かれまし た。医者には深い教養があったのですよ。長崎蓬洲や後藤白雪、富田徳風は『春秋左氏伝』を読む集まりを定期的に持っていました。

 また金沢で藩政のイデオローグである上田作之丞が越中各地を巡り、氷見や今石動そして高岡では弘化から嘉永にかけ大仏裏の桑畑に堂宇を建てて、町人に講 義をしています。氷見での講座内容から推測すれば、『論語』や『孟子』『老子』等でしょう。

 

国学の普及

 これらの学習を通じて高岡や越中人の中に自治の 自覚、そして「公」という意 識が涵養されてきます。それを後押ししたのが国学です。古学とか皇学ともいわれますが、本居宣長や平田篤胤は有名ですね。本居派は『万葉集』の研究をして いますので、高岡でも和歌を詠み、万葉の碑を建てる人が現れています。大伴家持が言及されるようになるのはここからです。日本語の文法や音韻、仮名遣いの 整理は、古典を精読し研究した国学の成果によるものです。また平田派は氷見で一大勢力を持ち、現世の行いの重要性を説きました。

 高岡町には平田篤胤などに学んだ大国隆正の思想が浸透しています。隆正は全国で活動し、高岡町にもひそかに来ていまして、町人指導層へ影響を与えまし た。隆正は上に立つ者の倫理意識を説く一方で、外国の風俗に影響されること無く、古法を維持すべきであり、わが国は万国の総本国であって、正理をもって相 手を諭せば、西洋人もわが国の指導下に治まって世界は平和になると考えました。高岡が幕末にあって、尊王一色に染まっていく論理的下地が形成されていきま す。

 また内嶋村では十村の五十嵐篤好が、富士谷・望月といった言霊派に学びながら、独自の思想を発展させます。人の心から「悪」が出てくるのは当然なのであ るから、悪と善は四・六のバランスに整えるのがよいのだ、言葉には神霊が宿っているのだから、言は慎むべきであると説いています。さらに外国の学問を学ぶ ことは悪いことではない、外国の学問にかぶれて自国の学問を軽視することが問題なのだと言います。篤好の思想は高岡町や砺波郡の多くの人々に受容されてい ます。

 

維新前後の学習

 安政年間の越中国は大災害に見舞われています。 大洪水・疫病・飢饉とそれに 伴う一揆等があり、藩や町会所は救援に明け暮れました。伏木へロシア船が無断侵入したことで異国による侵略が現実味を帯びます。この時期に活躍した高岡町 人の中には、片原町の医者で山本道斎の所に訪れた頼三樹三郎から触発されています。三樹三郎は歴史学の頼山陽の三男です。逸見文九郎や瑞龍寺の閑雲、津田 半村-高峰譲吉の母方の祖父です-等は三樹三郎と交際することで歴史の流れから世を見つめる目を学びました。

 高岡町はこのように尊王の町であり藤本鉄石なども来訪していますが、一方で蘭学が盛んな所でもあり、西欧の情勢に無知ではありません。この点で過激な攘 夷に傾くことは無かったのでしょう。伏木では能登屋に水戸から歴史学の青山勇が寄寓して、藤井能三の思想を形作っています。

 加賀藩は幕府の手前、京での失策を理由にして、元治元年に尊王派の一斉摘発に乗り出したため、高岡でも逸見文九郎や弟の川上三六が逮捕されるなど活動が 制限されるものの、郷土防衛隊である銃卒の訓練は、木町の鳥山敬二郎指導の下に進められ、金屋町では洋式銃砲の研究が行われていますし、佐渡家等では政局 の動きを勉強する会が催されています。

 維新後こういった尊王派の人々が町を指導し、明治元年十二月に町奉行の土肥隼之助・井上七左衛門と協同で、郷学機関の高岡学館-立教館ともいいますが- を片原町の町奉行官舎に設立します。句読師には津田半村や逸見文九郎、川上三六等も任命されました。高岡学館では教職員すべてが町人からの任命で、講師に は津島・金子・佐渡・長崎・服部という医者で学識の深い人々が就いています。まさに高岡の住民のための、住民による学習機関なのでした。基本から高度な内 容まで盛り込んでいたようで、詩の添削もしています。明治四年の廃藩頃までは継続され、この跡が後に育英小学校になったのではないでしょうか。

 戸出や中田の人たちは、明治二年二月に砺波で郡司局の支援をもらって設立した杉木教学所に関わっています。下山田の河合平三は私塾をもって島田孝之や島 巌などを教育しながら、杉木教学所で教鞭を取っています。また戸出では菊池復堂や吉田琴堂たちが、明治元年に正義堂を設立し、『論語』『孟子』等の儒学の 基本的な書を読み、詩を学んでいます。いずれも年齢を問わず、学習意欲に応じたものでしょう。

 

まとめ

 高岡や越中各地には和算が普及し、寺子屋が網羅 され、男女共幼少期からここ へ通っていました。識字率の高さは俳諧・川柳の文化を発達させ、謡曲やお茶・華道などを嗜む人が増えました。人々は幼少期から学ぶことを継続し、教養を実 学として捉え、身を律することで健全な「私」を育成し、「公」に尽くすことを意識して、自治の心を養っていたのです。人づくりや街づくりは、人々が学びな がら生活する営みから自然発生するものであり、それゆえに生涯学習機関の果たす役割は大きいといえるでしょう。

 

  越中国の学問と思想

 

 

 

 二、高岡で起きた心中事件と役所の対応 

  平成21年10月31日 ウイング・ウイング高岡5階

 

はじめに

 一般的に「変死人」の検使は、享保九(一七二四)年三月の公事場奉行通達で、公事場から出張して行うものとされていた。これが煩わしいとの反対があり、 寛政六(一七九四)年には町奉行に任され、町下代(犯罪取締り・定員二人)と町附足軽が行うものと改められるが、この間の寛保三(一七四三)年と明和九 (一七七二)年に高岡で心中事件が発生した。前者は町方と郡方、後者は京都も関わる事件であり、これらをどのように処理したのであろうか。

 

 一、寛 保三年の事件

①概要

 寛保三年八月二十二日の朝、御坂馬場(桜馬場から末広町辺り)から足軽町(白銀後町)へ至る道脇は下関村領であったが、その畑の中に脇差で咽喉を掻き 切った男女の遺体が発見された。直ちに町奉行(沢田次兵衛・渡瀬弥次右衛門)へ報告が行き、男は砺波郡立野村さっ指さき崎屋五兵衛の倅で五郎兵衛、女は風 呂屋町立野屋小兵衛の姪きわ(二十二歳)、と判明する。

②調査

  町奉行は砺波郡を管轄する小杉新町の御郡所へ連絡し、そこから金沢の公事場へ飛脚が走った。公事場では郡奉行(葭田六左衛門直貞・菅野内右衛門正倚)に検 査を命じ、二十二日葭田(延享三年に高岡町奉行に転任)自ら場所を見分するよう指図があった。

  郡奉行の見分には立野村から肝煎、東海老坂村(十村上坂五兵衛)・内嶋村(同佐次右衛門)・大白石村(同石川又太郎)・埴生村(伝右衛門)からも手代(十 村の部下)が同行した。現場では見物人が大勢出ていたため、整理を足軽一人に任せて調べを行った後、金沢に戻った。

夜には小杉から足軽の山内和左衛門が男の骸を調べに到着し、女の方は高岡町の管轄であるから番人を出してほしいとの要求がある。更に下関村組合頭の又助か らは高岡町会所(町年寄は天野屋伝兵衛・菱屋源兵衛等定員約四人)の当番肝煎(町肝煎で高岡町総代・定員四人)三木屋半右衛門へ、見物人整理のため御坂の 道と足軽町に垣を作るべきとの提案があった。これらに対し、半右衛門は従来高岡町の者が郡方領内で亡くなっても番人を派遣した例は無く、それに往来道に垣 を作るのは容易なことではないことを承知してほしい。番人については町奉行の指示があれば出すので、郡方の足軽から町奉行へ要請してほしいと返答する。

  町奉行は二十二日付書状で郡奉行へ女の身元を伝えると、郡奉行は二十四日付書状を発し、女の身元については承知したことと、こちらでも十村から聴取し公事 場へ報告したこと、郡方から検使の足軽を派遣したこと、そちらから女の骸を引き取るため人を出してほしいこと、公事場へ提出する検使書付作成のこと、を伝 えた。

  御郡所から山内に続き足軽の田中甚八も高岡町に派遣される。高岡町奉行は女の骸を受け取りに町附足軽の千田藤左衛門と宮野貞右衛門を行かせ、きわの伯父で ある立野屋小兵衛と立野村から五郎兵衛の親類も来た。七ツ過ぎには調べも終わったので、事件発生現場が郡支配地であるため町方が郡方に請取を渡して、それ ぞれが骸を受け取り帰った。

 二十四日付口上書で小兵衛は郡奉行へ、きわが二十二歳であり、一向宗・砺波郡立野村西念寺の檀那で切支丹末類ではないこと、皆様を煩わせ申し訳ないこと を陳べ、高岡町肝煎として三木屋半兵衛がこれを保証している。また町奉行へは小兵衛ときわの姉ひろ、妹のそうが事情を申し述べている。その中に、きわは町 で働いていたが、夏頃から五郎兵衛と密通し、両人が申し合わせてこのような行動におよんだのであろうこと、を証言した。同日付で町奉行は公事場奉行(菊池 十六郎・品川主殿・富田織部・藤田求馬)に、特に替わったところは無かった旨を報告する。

 五郎兵衛の持ち物を調査したら、鼻紙入の中からきわの書置が見つかった、と内嶋村手代の善兵衛と東海老坂村手代の豊四郎が、同日付で半兵衛に知らせてき た。そこには次のように、どこへ何を預け、誰からどれだけ借りたかが記されていた。

 

一、あんとう壱ツ きれしや三右衛門殿

一、壱升鍋弐ツ    同人

一、口なへ一ツ    同人

一、ぬりなへ一ツ   同人

一、七寸かゝミ一まい 同人

一、くし箱一ツ    同人

一、かうかいすへまき 同人

        色々有

〆 右預ケ置

一、三百拾五文 かり 笠屋又兵衛殿

一、四貫文   かり 白崎屋圓兵衛殿

    此方

一、あわせ弐ツ

一、わた入壱ツ

一、きぬおひ一ツ 立すし

一、かたひら四枚

一、長持預り置色々 ふろや町甚兵衛殿

右之通御座候此外ニかり銭壱文も無御座候、右又兵衛殿かり銭ハ三右衛門殿預置候物ニ而御算用被成可被下候 風呂屋町甚兵衛様へ申上候、私きるいをかわりニ 御立被成候而、私死骸ヲ御かくし可被下候 いもと之儀かわいと存し候間如何様共御かくまい奉願上候、私儀ハ大悪人ニ而御座候、前々約速かため置候へとも、 とかく先之親様方世間之道茂立不申と被申候而如此ニ御座候 以上

外ニ五百文 宿ちんかり御座候

 八月廿一日         おき

 

  半兵衛はこれを受け取り、書置の通り衣類を売って借金を精算して、残った衣類は遺族に分配したことを、善兵衛と豊四郎に知らせている。

  なお、五郎兵衛の住んでいた立野村には定駅馬を置いて蔵宿があり、菅笠(立野笠)が特産品である。この頃の田地高は六百七拾五石・畑屋敷地四十三石、家数 九十七軒で、商売人は十九軒であった。実家である立野村の指崎屋五兵衛は町蔵宿の保証人を務め、元文五(一七四〇)年に給人蔵宿を命ぜられている。

 

二、明和九年の事件

①概要

 明和九年五月一日早暁、高岡御旅屋番人の次郎右衛門と伊左衛門が構内を巡視していると、門前の樹林内に男女の骸を発見した。直ちに御徒の岸九郎右衛門等 へ届け出、そこから町奉行小川八左衛門と大野仁兵衛へ急報した。町奉行は直ちに足軽千田才右衛門等を派遣し調べに当らせ、同日中に公事場奉行前田権佐・永 原求馬等へ報告した。町肝煎三木屋半左衛門が調べると、男は二丁町の医者小芝杏仙と判明、女の身元照会には手間取ったが、すぐに京都村久保今町萬屋利兵衛 の娘きく十八歳と分かった。

②調査

 公事場は与力笠間儀兵衛と山本武兵衛を検使として派遣し二日夜に到着、三日に骸を検視する。杏仙の母くめを尋問すると、あらかたが判明した。

 くめの夫である正仙が四年前に病死したが、すでにその頃に杏仙は京都へ医者修行に出ていた。今年二十一歳になり、四月九日にきくを連れて帰郷した。金沢 の者であり妻にしたいという。だがまだ親類や組合にはこのことを話さないでほしいというので、その通りにしていたら、二十九日五ツ時過ぎに京都二条河東ぽ ん先とちょう斗町(遊女屋等のある遊興街)の美濃屋市兵衛と名乗る人が尋ねてきて、杏仙と話をしているのを聞くと、きくは美濃屋の下女で、給銀を前借して 幼少の頃から年季奉公していたのを、帰郷するに当り密かに連れ出したとのこと。市兵衛はきくの踪跡を捜索し、高岡に潜伏したことを知り取り戻しにやってき た。しかし双方離れがたいのなら、まず女の親とも相談し、こちらで前借分を精算してもらえればそれでよいと言う。それに対し杏仙は、きくともどもこのよう なことをしたのは申し訳ないが、給銀を返済することは容易ではないと返答したところ、市兵衛は杏仙に、今日は木戸も閉まるので帰るが女は返すよう言い、組 合に届け出るからと組合頭並びに町頭の名を尋ねたので、くめは小馬出屋八郎右衛門と組合の桶屋左平を教えた。市兵衛が去った後、杏仙は母親のくめへ正直に 話し、市兵衛の申し分は無念であると言うものの、特に外出などもせず、また戸外にも異常は無く、夜四ツ時までには両人とも寝た。しかし翌朝くめが起きた ら、両人ともどこにもいない。やがて御林の内でともに相果てたと知り驚くことになる。

 杏仙が用いた刃物は平生帯びていた脇差であり、骸の辺りに酒樽と椀があったのは、今が最期と思ったか、日頃は飲まない酒を飲んだものであった。くめの申 し出によると、切支丹末類ではなく宗旨は一向宗、檀那寺は専福寺であり、骸を杏仙の弟に当る宅之助に渡されることを願い出た。

 しかし、この事件はこれで落着しなかった。女は他国者であり、事務取扱が容易にはいかない。五日に藩老の前田駿河守孝昌は町奉行に命じ、調査結了まで両 人の骸を塩詰にさせた。また二丁町屋清右衛門と小馬出屋八郎右衛門に対し、他国者(美濃屋のこと)を止宿させたにもかかわらず、その届け出をしなかったと して、町奉行預けとした。美濃屋市兵衛は、一切が終わるまで旅籠町茶木屋次郎兵衛方に留め置かれる。駿河守は京都町奉行に委細を伝え、京都町奉行所詰人 は、きくの親である萬屋利兵衛と市兵衛名代よしを呼び出し尋ね、市兵衛の申し分が正しい事を確認したので、二十一日付で駿河守は高岡町奉行へ、女の骸を市 兵衛に渡して帰郷させ、帰着したら番所に出向くよう伝えることを命じた。美濃屋のよしは翌日付高岡町奉行宛書類で、きくは切支丹末類ではなく禅宗であり、 葬儀も禅宗で執り行うべき所、杏仙と一緒に果てたのであるから、杏仙の檀那寺である専福寺に頼みたいこと、市兵衛も葬儀に出席してから帰郷するので、それ から番所に出向くことにしたい、と願い出ている。

 

おわりに

 最初の事例は事件発生場所が郡方、男が郡方で女が町方である。郡奉行に調査責任があり、検視には郡方からは足軽と十村手代及び事件現場の組合頭、町方か らは足軽と町会所当番肝煎が出た。公事場へは報告するのみで、特に指図を受ける必要はなかった。発生が八月二十二日で落着が二十四日と短い。

  次の事例は発生場所が高岡町で、男も高岡町人だが、女は京都に籍がある。当初の調べは高岡町で行ったが、国境を跨ぐ事件でもあり、公事場が直接に指揮して 検視を行った。更に藩老を通じて京都町奉行所にも照会が必要であった。したがって発生が五月一日で落着が二十一日である。

  心中事件は男女の悲恋であり、人々の同情を得やすい。人形浄瑠璃等の演目にも入っている。しかし越中国内では事例が少なく、取り上げた高岡の二例にして も、人々の注目はその場限りであったようである。暮らしに余裕が無かったのでないとすれば、大坂町人のように事件を物語にまで膨らませる、“文化力”がま だ不足していたのかもしれない。越中国や高岡で寺子屋や学問が一般的になるのは、文化・文政期以降である。

 

主な参考文献

「越中高岡紀事 不歩記」『富山県史 史料Ⅲ』(富山県、昭和五十五年)

『富山県史 通史Ⅲ』(富山県、昭和五十七年)

『立野史料総覧』(京谷史陽編、平成四年)

『高岡市史 中巻』(高岡市、昭和三十八年)

『高岡史料 下巻』(高岡市、明治四十二年)

『越中史料 巻之二』(富山県、明治四十二年)

『高岡の町々と屋号 第5号』(高岡旧町諸商売屋号調査委員会、平成九年)

『高府安政録・射水通覧』(高岡市史編纂委員会、昭和三十四年)

『射水郡十村土筆』(小田吉之丈編、昭和六年)

『小杉町史』(小杉町役場、平成九年)

『角川日本地名大辞典16富山県』(角川書店、昭和五十四年)

『富山県の地名』(平凡社、平成六年)

『加越能近世史研究必携』(北國新聞社、平成七年)

                      順不同

 

三、砺波屋伊右衛門を通して見た町人の活動

  平成22年11月6日 ウイング・ウイング高岡5階

 

 高岡の漆 芸家辻丹楓について、従来その名は高岡漆器創生者として知られていたものの、人物についてはほとんど顧みられることはなかった。しかし近年の一戸渉氏等に よる調査で明らかになりつつある。

一、砺波屋伊右衛門の略歴 

砺波屋伊右衛門は享保七(一七二二)年頃に砺波郡辻村(現高岡市 辻、祖父川右岸で射水郡の境近 く)に生まれ、苗字は辻、兄の小左衛門は農業の傍ら手先の器用さを生かし、張物や壁・桶を作り、大工の仕事までこなしていた。伊右衛門は病弱であったが、 そのような兄をまねし小刀で彫刻を覚え、獅子まで彫ったと伝えられる。やがて須田村(現高岡市醍醐)の長念寺(大谷派)の寮に養子に行くことになったが、 翌年寺に男子が誕生し、実家に戻って分家したものの、農家の力仕事には向かず、一門で協議し高岡町へ引っ越しさせることにした。

家財を売り払い、当時高岡町の中心地域であった御馬出町に出てきた 伊右衛門はまさに水を得た魚 であり、宝暦頃より御車山の造作や漆芸品を次々製作していった。その間に京で修業し、明和末年には結婚して二代目伊右衛門が生まれるが、程無く妻は病死、 文化二(一八〇五)年正月二十七日に八十四歳で没する。名声とは裏腹に借財が少なくなく、二代目は返済に追われ子を成せず、弟子の助松を養子にしたが、結 局絶えたという。

二、漆芸家辻丹楓

①高岡の漆芸技術 伊右衛門は丹楓と号し、三十歳代の宝暦頃に京な ど上方で修業している。京で は彫匠の次郎左衛門について堆朱風を学んだといわれる。いわゆる「丹甫塗」(丹楓風の塗り物)とは、乾燥後に灰墨様の古味を入れて仕上げ、擬堆黒・擬堆朱 の技法を用いた塗り物の総称である。古味とは、漆塗りした後にマコモ粉や煤玉などの粉を蒔き付け、凹部にこれを残す手法である。堆黒(朱)とは、黒(朱) 漆を何層にも塗り重ねて文様を彫る方法であるが、型紙・型材を使って漆錆型抜きの技法で薄肉模様にするのが擬堆黒・擬堆朱である。さらに存星を用いたもの もある。唐風の漆芸で、朱・黄・緑などの彩漆で文様を描き、乾燥後に輪郭や葉脈・花弁などの筋を線彫りする。

 漆は落葉小高木でヒマラヤ原産といわれる。わが国には渡来したと いう説と、もとからあったと いう説があり、縄文の漆器にベンガラや朱をすりつぶして顔料を作り、刷毛を用いて塗り重ねているものがある。やがて多くの技法が生み出され、漆芸として発 展していく。蒔絵は漆で模様を描き、乾かないうちに金・銀・錫などの粉や色粉を蒔き付け文様を施したもの、錆絵は漆に砥の粉を混ぜた錆漆に水分を加えて柔 らかくし筆で文様を描いたものであり、厚い肉付きと筆勢が現れるのが特徴であり、絵画的でもある。螺鈿とは貝殻を散りばめることを意味し、平らに磨いた貝 殻を切り抜いて貼り付ける技法である。七子は彫金で用いられ、数の子のような魚の卵の細かい集まりを表現する。

 伊右衛門が修業した京では堆朱の導入が遅れ、享保頃にようやく出 現するものの、現在には続い ていないようである。漆器は唐物ともいわれ、明・朝鮮・東南アジアからの舶来品として、室町以後に禅宗の寺が茶道具として珍重する。琉球では十六世紀以来 沈金・螺鈿・堆錦の技法を研究し、わが国の漆器に大きな影響を与える。錆絵技法も煎茶道具を通じて輸入され、「唐物写し」として模倣される。これらの技法 は高岡の漆器にも取り入れられていった。

 慶長十(一六〇五)年に前田利長が金沢から富山町へ連れて出た細 工人(林久次・山科佐左衛 門・青木重右衛門等)は高岡築城の際にも同行し、さらに新川郡大場村からも庄右衛門(大場屋)が移住して指物(箱物木地など)屋を始める。箪笥・長持・針 箱・鏡台・膳に漆を塗った「赤物」は全国に販路を拡大する。中には透漆(生漆から水分を除いて透明度を高めた漆で、顔料を混ぜると色漆にもなる)を用いた り、外側を黒塗り・内面を朱塗りの箱御膳もある。元和頃より制作された仏壇は、文化・文政頃に一般家庭へも普及し、佐野理平・飯野仁市等の名工を生み出し た。漆は塗師が精製していたが、取扱に注意を要する原料が多くあり、ようやく仏壇塗師三代目の高森与一が幕藩末に大場屋庄左衛門に技法を伝え漆商ができ た。

 漆器に用いる原料のうち、顔料の多くを大坂に依存し、朱は硫化水 銀、ベンガラ(弁柄)は酸化 第二鉄、緑は酸化クロム、黄は三硫化砒素、白は酸化チタニウムを用いる。マコモ粉は茨城産の水草根にある黒褐色の粉末、砥の粉は京から入れる。珪酸アルミ ニウムであり、布海苔で団子状に固めた。その他、接着剤として膠(動物の皮や骨から作る)、漆の溶剤として樟脳油(樟脳を蒸留)やテレピン油(松科樹木の 樹脂を蒸留)を使い、全国から移入している。

 高岡町の漆器は城端の白漆とは異なる発展をする。城端では小原家 を中心に蒔絵の技術が深化 し、加賀藩の細工所や富山藩にも城端蒔絵師がいる。高岡にも五十嵐道甫や吉兵衛といった塗師がいたようであるが、金は奢侈品でもあったため定着せず、色漆 や彫刻、存星といった技法が成長していった。元禄頃の塗師屋八兵衛の作と伝わる漆絵草花文菓子取は城端塗風ではあるが、ぼかしの手法を用いるなど、細部は 異なる。そのような高岡町で培った技法の粋を集めたものが御車山であり、町ごとに競い合うことで、技術がさらに磨かれていった。天保十(一八三九)年八月 に加賀藩主前田斉泰が高岡町に宿泊した際、高岡町の職人である板屋小右衛門細工の存清刻硯屏を金二両三分・伊勢領屋桃二細工の堆黒文箱を金一両一分二朱で 買い上げた(硯屏とは物の後ろに置く飾り屏風のこと)。板屋小右衛門は半樵亭主の号で『春藻錦機』を編纂する文人でもあり、紅・紫・白等の漆を用い、桃紅 色の彩色を得手とした。伊勢領屋桃二は鳴鳳堂の号を持つ御馬出町砺波屋桃造の門人か。桃造は砺波屋伊右衛門の門下とも伝わる(現在鴨島町の渡辺家が末 裔)。

 漆器は安土桃山時代から海外へ運ばれ、江戸時代にも長崎から輸出 し、欧米コレクター間で日本 とは漆器を意味した。ただし高岡町では小売販売の店舗が無いため、製作者が受注販売する時代が長く続き、明治に入ると駒栄善助(道具屋)や米田精平(道三 屋)・富田七郎・高池源太郎等が漆器販売を手掛けるが、漆器販売会社の設立は明治四十二年の大坪富次郎(米穀・船問屋・銀行家)による大坪商会を待たねば ならなかった。

②伊右衛門の作品 さてそれでは伊右衛門自身の作品は、というと実 ははっきりしない。

宝暦三(一七五三)年に小馬出町御車山鉾留(口碑)、同十二(一七 六二)年二月に木舟町御車山 大黒天と唐子の面(箱書写し)、明和元(一七六四)年に木舟町御車山の胡蝶鉾留(三月飯野仁兵衛作)、天明元(一七八一)年二月に通町御車山高欄(箱 書)、同七(一七八七)年暮れに筏井甚右衛門(上伏間江村肝煎)発注の厨子を完成、享和元(一八〇一)年三月に木舟町御車山高欄を製作し、その他には花鳥 擬堆黒菓子器、高岡市立博物館所蔵の擬堆黒総盆、木舟町の山水唐草文擬堆黒四重、川原本町の片輪車梅文擬堆黒盆、ほかにも実物が残っていない伝辻丹楓作が いくつもある。また放生津の曳山制作にも携わったとして、放生津中町の曳山、古新町の諸葛孔明像や鏡板、奈呉町や法土寺町の鏡板、新町の標識、立町の高欄 や鏡板(井波の番匠屋と共作)等があるものの、確かではない。作品の中には二代目伊右衛門のものや、似た名前の辻九右衛門千江の作品も混同している可能性 がある。九右衛門は父から彩漆の技法を受け継ぎ、木舟町の御車山修復や通町布袋和尚の制作に携わっている。つまり確実に伊右衛門こと辻丹楓の作品といえる ものは無いのである。しかし高岡の漆芸に名が残っているのは事実であることから、指導者として優れていたのかもしれない。

三、高岡町人砺波屋伊右衛門

 宝暦十一(一七六一)年に起こった木町との曳山騒動では、京に知 己の多い伊右衛門が解決のため活動している。

①曳山騒動 宝暦十一年に高岡の木町が御書祭(毎年五月十九日・二 十日前田利長の命日に御直筆 の御書を見台に飾るという町奉行公認の報恩行事)に際し、二日目に御車山に似せた曳山を出そうとして、御車山を預かる山町(旧北陸街道沿いの通町・御馬出 町・守山町・木舟町・小馬出町と周辺の一番町・二番町・三番町・源平板屋町)の一つである御馬出町に貸し出しを願い出て、御馬出町も了承したかのような回 答をしていた。これに憤った通町は五月六日に組合頭が御馬出町の組合頭に口上書を送り、反対の意思を表明する。そこで山町の代表が協議し、貸し出さないこ とを決め、改めて九日付で通町組合頭二人が御馬出町組合頭の平田屋善左衛門と常国屋治左衛門に、木町への御車山貸し出しを差し止める旨通知する。御馬出町 が木町へ正式に貸出しを断ると、いったん承諾していたのが断られたことに木町は反発し、高岡町奉行(坂井三郎兵衛・松崎喜兵衛)を介して話し合いを申し出 た。通町は各山町の組合頭と協議した結果、町奉行へ御車山の由緒と類似の曳山を認めない趣旨の書類を提出する。事ここに及び木町は借りることを諦め、自身 で曳山を作るので毎年曳かせてほしい、九月十六日の神明祭には曳きたい、と町奉行に願った。

 だがその年には結論が出ず、翌十二年三月六日に町奉行から本町と 木町の肝煎に対し、木町の願 いを認めると告げた。この結果に猛反発した山町は関野神社祭に御車山を出さないことを決め、神主の関三河守(正明・従五位下)に町奉行や木町との仲立ちを 依頼する。三河守はともかく木町は曳山を出さず、金沢の判断を待つよう説得しつつ、町奉行・寺社奉行・山町・木町を行きつ戻りつして調整するものの、双方 とも主張を変えず、争議と直接関わりのない町々は山町を激励し、町奉行は双方に書類提出を命じ解決に努めるものの、木町の曳山を認めた判断を撤回しなかっ たため、亀裂は深まる一方であった。ついに六月五日町奉行は通町組合頭三辺屋小右衛門と茶木屋権兵衛及び二番町組合頭三辺屋圓兵衛に閉門、二番町組合頭高 辻屋久左衛門に遠出禁止を命じた。

 山町はこれに屈するどころか、七日の夕方に通町の人々が会合し、 町奉行へ先の処罰理由を明示 するよう強く申し入れ、町内全てが戸を閉めることを通告し、十日から実行に移した。町肝煎が説得しても効無く、すぐに二番町を始め、他の山町や坂下町もこ れに倣い、十一日には全十町が戸を閉めた。慌てた町奉行や町年寄(関屋八右衛門・天野屋伝兵衛)が制止するものの無駄で、金沢は三人の閉門を解除すること にし、十六日に復職する。

 この間に三河守は寺社方と相談し、京の公卿で神職の吉田家を頼る ことにする。五月二十九日付 で呼び出しがあり、上京してこれまでのいきさつを説明すると、七月十三日に寺社奉行宛で吉田家から書面が届き、木町に曳山を許す儀は差し止めこれまで通り にすべきである、との内容であった。しかし前日、主上(桃園天皇)が崩御あらせられ、五十日間の服喪が発せられたため、三河守の帰郷は遅れる。

 九月になり吟味が再開されると、木町が京の白河家(藤原北家)等 の公家衆に接触し、有利に事 を運ぶことを画策していたことが発覚し、町奉行は二十六日に首謀者として開発屋長吉と能登屋仁左衛門、監督不行届として組合頭の松屋次右衛門に入牢を命じ た。吉田家から金沢へも書面が届き趨勢は決した。三河守が帰郷すると手続きが進み、御用番村井又兵衛からの指示で十一月二十七日に町奉行は山町九町の組合 頭と坂下町組合頭(祭之町)組合頭に町年寄宛書面を渡し、木町の儀は差し止めるので御車山祭はこれまで通り曳くよう達した。すでに祭日(三月十六~十八 日)は終了していたが、御車山を預かる町の人々は十二月八・九日に雪中で曳いた(通町・御馬出町・守山町・木舟町・小馬出町・一番街道・二番町の七基)。

 翌十三年二月五日に町奉行は先に町々が戸を閉めたことを許す旨を 告げ、五月二十二日には木町の入牢者三人も赦免され、事件は落着する。

②砺波屋伊右衛門の活動 伊右衛門はこの事件に深く関係していた。 居所が御馬出町であることか ら、また京に知り合いが多いことから何かと頼られている。宝暦十一年五月六日の通町から御馬出町へ真意を問い質された際には、伊右衛門が八日に口上人と なって、木町へ回答する前に意見を聞かせていただきたい、と返答している。翌年五月には高岡と金沢を数度往復し、六月に上京して情報収集や連絡調整に努 め、七月には金沢、八月にまた上京し、山町有利に解決するため各所で根回しをしていた。

 また富田徳風(横町屋、町年寄)が編纂した『高岡湯話』には、生 活に困ったある後家が、伊右衛門の親へ数十年前に貸した金銭の返済を迫り、伊右衛門は一枚の衣で返したとあるが、真偽のほどは不明である。

【参考】漆の生産 加賀藩は寛文六(一六六六)年に漆の植え付けを 奨励し、重点産業として保護 育成した。後の弘化四(一八四七)年には漆苗代金を貸し付け、砺波・射水郡に四十八万本の植付けを図る。嘉永元(一八四八)年までに二十四万本が達成され た。文久二(一八六二)年に漆や櫨の増産を奨励し、砺波郡に漆十六万六千余本と櫨七千九百本の植樹を達している。

四、国学者砺波今道(荒 虫)

①建部綾足との出会い 曳山騒動が落着して後、伊右衛門は五十歳の 頃、明和八(一七七一)年に 上京し、京の烏丸に住んで、片歌の建部綾足(享保四年~安永三年三月十八日、長崎で絵画を学び、国学・和歌に通じる)に入門し「荒虫」の号を用いている。 片歌とは上の句と下の句によって構成され、両方を同じ曲節で歌うのを原則とする短歌で、五七(五)、五七七の歌体である。最初は片歌に抵抗があったが、 『万葉集』や契沖(寛永十七年~元禄十四年一月二十五日、高野山で修業、歴史的仮名遣いの成立にも大きな影響)の『万葉代匠記』を読んで触発される(『い はほぐさ』)。九月に砺波荒虫(あらむし)の名で『いはほぐさ』を出し、尾張前津の横井也有(元禄十五年九月四日~天明三年六月十六日、尾張藩士であった が宝暦四年に隠居した風流人)が綾足の『とはしぐさ』を論難したことへ、自身を子路(孔子の弟子)に準え、万葉集や日本書紀等を引用し、かつ也有の仮名遣 いの誤りを指摘しながら反論する。安永二(一七七三)年に絵を指導するため江戸に下る綾足に従うが、翌年三月十八日に綾足は没してしまう。

②加藤宇万伎に入門 江戸で伊右衛門は加藤宇万伎(享保六年~安永 六年六月十日、幕臣で賀茂真 淵の門)と知り合い、綾足没後に入門する。同門には上田秋成(享保十九年六月二十五日~文化六年六月二十七日、医者、大坂や京に住む)がいる。同五(一七 七六)年頃に今道の号で漢詩集『今道集』を出版するが、現存していない。断片的には、安永年に作ったとされる鴨川の東で見た京の夜(繁華街)の情景、帰郷 する際に京で見送った山本蘭卿(中郎・封山・有香、高岡出身で本草と古医方)へ送った詩文が、津島北渓(高岡の医者・本草家)の『高岡詩話』に掲載されて いる。

 伊右衛門は宇万伎が記した『土佐日記』の注釈を写しながら、仮名 遣いを訂正する。しかし病気 がちであった宇万伎だが、執念で本居宣長(享保十五年五月七日~享和元年九月二十九日、医者・国学者、『古事記』や『万葉集』等を研究)から借りた『古事 記伝』を読んでいたのであるが、六月十日に京で没した。伊右衛門は二十六日に師の借用本を返しに宣長を訪れた。その際に出会った宣長の門人たちとはその後 親しく付き合うことになる。特に稲掛茂穂(重穂)こと後の本居大平(宝暦六年~天保四年九月十一日、宣長の養子になり鈴屋社中を拡大する)とは親密であっ た。十月十八日に茂穂は富小路夷川に住んでいた伊右衛門を訪ね、賀茂真淵や加藤宇万伎の本を、十一月二十八日には上田秋成や加藤宇万伎、そして伊右衛門こ と今道の歌などが掲載された和歌詠草(和歌の下書き)を借りて写している(『八十浦之玉』を編集)。

十月に発刊した『喉音用字考』では、宇万伎の説を冒頭に引用しつ つ、宣長の著書から多くを引 き、上田秋成が宣長との論争の際にはこれを大いに参照したという。秋に伊右衛門は秋成を訪ね和歌を詠みあい、菅原好和(菅原道真の末で伏見の医者、苗字川 口、字三郎、号西涯・丹宮、本居宣長とも交際)と知り合う。

③古代の音韻に関心を深める この頃伊右衛門は漢字の音について富 森一斎から学ぶところがあ り、「い」と「ゐ」等、古代語の音に強い関心を持つ。一斎は藤原直養『韻鏡藤氏伝』(明和六年)の序文で、南宋の音韻図を研究した文雄の『磨光韻鏡』(延 享元年)を補正した(泰山蔚はこれを批判)。

 同八(一七八九)年から天明元(一七八一)年まで高岡に帰郷して いたため、茂穂は連絡が取れ ないことを嘆き、京に戻った直後であろう八月十九日の夕に有馬温泉へ行く途中と称し会いに訪れ、伊右衛門は茂穂に内池益謙(京の医者で後に江戸在住、宇万 伎にも入門)や橋本経亮(朝臣・梅宮社正禰宜、小沢蘆庵のもとで山本蘭卿とは和歌の同門、京で本居宣長を仲介)を引き合わせた。帰路も九月二十一・二日に 訪れ、『万葉集』の話で盛りあがる。

 同六(一七八六)年に伊右衛門は宣長と論争中の上田秋成を大坂に 訪れ、古代の音韻について議 論した翌年に高岡へ戻っているが、寛政元(一七八九)年一月に京で大火があったこともあり、京へはしばらく戻らなかった。真淵や宣長の門人栗田土満(遠江 国平尾八幡宮祠官)が訪れるも、会えなかったことを残念がっている。

 高岡では寺崎?洲(宝暦十一年~文政五年、三木屋半左衛門、町年 寄)等は伊右衛門の門人になり、?洲が京で出した『狐の茶袋 初編』(文化十三年)には、荒道として片歌や仮名遣いについての解説と句を載せる。

 地獄の桜

  花ぬすむ影までうつす鏡かな

 真の真

  火の中に有ともしらぬ鵜舟哉

 ようやく上京したのは享和三(一八〇三)年頃であり、八十歳をと うに超えていた。秋成と親しい越智魚臣(宣長と秋成の論争を記録)は、『万葉集傍注』巻七・八に伊右衛門(今道)の指摘した漢字の読みや誤記を引用してい る。

 伊右衛門が没したのは二年後の、文化二年正月二十七日であるが、 終焉の地は高岡であろうか。他に、現存しない著作には『小貝』もある。

 伊右衛門は高度な技能を持つ漆芸家であり、著作もある学識者であ り、さらには高岡町人として の責務も果たしている。それゆえ以前は一人の人物であると断定できなかったほどである。家庭的には決して円満であったとは言えまいが、二百年以上前の高岡 に現れた傑物であることへの認識を、われわれは新たにするべきであろう。

 

【参考文献】 順不同

一戸渉「礪波今道と上方の和学」『近世文藝』第八十七号(平成二十 年一月)

一戸渉「礪波今道年譜稿」『総合研究大学院大学文化科学研究』第四 号(平成二十年三月)

富田徳風『高岡湯話』(高岡市立中央図書館)

津島北渓『高岡詩話』(高岡市立中央図書館)

『狐の茶袋』初編(文化十三年、高岡市立中央図書館所蔵)

『高岡の町々と屋号』(高岡旧町諸商売屋号調査委員会、平成五年)

『高岡市史』中巻(高岡市、昭和三十八年)

「高岡御車山記録」『重要無形民俗文化財 高岡御車山調査報告』 (高岡市教育委員会)?(平成七年)、?(平成八年)

『高岡御車山』(高岡市教育委員会、平成十二年)

『日本漆工 高岡漆器』(?日本漆工協会、昭和五十六年)

『高岡漆物語』(伝統工芸高岡漆器協同組合、平成八年)

『本居宣長事典』(本居宣長記念館、平成十三年)

『国書人名辞典』(平成八年、岩波書店)

       その他、地名辞典や人名辞典

更に、

高岡市立博物館ウエブサイト

伝統工芸高岡漆器協同組合ウエブサイト

いこ まいけ高岡 

         等を参照

第七章 北前船と越中国の産業・人々

 

一、文化の露寇と富山藩の出 兵計画(大略)

  平成20年8 月30日 教育文化会館

は じめに

 長崎で交易を拒絶されたロシ ア・アメリカ会社(Russian- American Company)のレザノフ(N.P.Rezanov)は、同会社付き海軍士官フヴォストフ(N.A.Khvostov)大尉とダヴィドフ(G.I. Davydov)士官候補生の率いる二隻のロシア艦に文化三(一八〇六)年九月十一日樺太のクシュンコタン(大泊)を襲撃させました。事態を重く見た幕府 は翌年三月二十二日東西蝦夷地の直轄を決定しますが、ロシア軍は四月二十三日に択捉島を襲い、二十四日ナイホ(内保)の番屋を焼き払い、二十九日会所があ るシャナ(紗那)沖合いを砲撃しました。防備をすべきはずの箱館奉行所では調役下役元締戸田又太夫と下役関谷茂八郎が津軽藩・南部藩の駐屯部隊とともに篭 城しましたが、弾薬不足と抵抗意志の欠如からロシア軍は大した抵抗も受けず上陸し、会所と番屋を掠奪して放火しました。天文地理掛間宮林蔵と医者の久保田 見達は戸田に替わって応戦準備を進めましたが、戸田はルベツ(留別)への退却を命じ、アリモイで自刃して果てます。幕府は防備を固めるため、松前藩には陸 奥梁川に九千石を与えることにして、奉行所を箱館から松前へ移し、松前奉行と改め四人体制にします。しかし五月二十九日ロシア艦は礼文島で福山の伊達林右 衛門所有宣幸丸を掠奪・放火し、六月二日野寒岬沖で松前藩船禎承丸を襲撃し、利尻島で幕府の万春丸を襲い焼き払いました。五日利尻山に上陸して放火した 後、捕らえていた富五郎や源七等八人を釈放します。その際に通商を要求する書簡を持たせました(文化の露寇)。

 六日幕府は若年寄堀田正敦に六百人を率いて箱館入 りすることを命じ、八月二日 神谷勘右衛門を国後、近藤重蔵を利尻島へ派遣しました。翌同五年一日蝦夷の防備を南部藩と津軽藩に加え、仙台藩二千人(択捉・国後・箱館等)と会津藩千六 百人(樺太・宗谷・利尻・松前等)を急派し、秋田藩と富山藩に非常時には出兵できるよう準備しておくことを命じます。まさに未曾有の事態で、屈辱であると ともに国の危機でした。

 

 富山藩の軍役

 越中国富山藩十万石は加賀藩の支藩ですが、支配領 域は婦負郡と新川郡の一部の みに過ぎず、砺波郡・射水郡の全てと新川郡の大部分は加賀藩領であるため、現在の富山県に面積で遠く及びません。

明暦元(一六五五)年の軍役は騎馬百七十騎・鉄炮三 百五十挺・弓六十張・鑓百五 十本・旗二十本です。

 これまで富山藩が領外へ出兵したことは、延宝九 (一六八一)年六月の越後国高 田城請取があるのみで、その時には騎馬百六十五騎・鉄炮二百三十挺・弓二十張・鑓百本・人足を含め四千三百五十人の陣容でした。飛騨国高山の一揆鎮定のた め飛越国境まで出動した際には、先手に騎馬三十二人(内医者二人)・弓五張・鉄炮十五挺・長柄二十本・大筒七挺・人数五百人余、二の手に騎馬三十六騎・弓 十五張・鉄炮二十挺・長柄二十本・大筒五挺・人数九百人が動員されています。しかし今回はいずれをも上回ることが予想されました。

 幕府は軍役規定を用いず、石高とは無関係に各藩と の協議で決める事にしていま した。富山藩では、家中知行高五万六八五石・御扶持高一八五二石・御俵取高四一二六俵(文化十四年「富山様御家中御知行ヨリ町肝煎迄人名帳」)に充てねば ならず、家臣数を抑制していたため、この事件より三十年後の天保九(一八三八)年には、扶持方二百七十三人・俵方千百四十人・知行方二百二十六人(「天保 九年 富山藩分限帳」)に過ぎません。

 

 蝦夷地臨時出兵 の準備

(一)幕府からの下命

 ロシア艦による侵掠は幕府を震撼させ、富山藩でも 領内に静謐を達していまし た。そのような中の文化五(一八〇八)年十二月二十五日将軍徳川家斉から富山藩主前田利幹宛の下命書が、小姓組小島六左衛門によって早飛脚で江戸から到着 します。そこには松前奉行から指示があるまで準備しておくことと、蝦夷地へは船で来るようにと書かれてありました。 

 

 蝦夷地之儀、定式之手当者南部大膳太夫、津軽越中 守江被仰付置候得共、臨時人 数之節者、松前奉行より申越次第、其方人数可被差出候、尤陸地者相隔候間、海上差越候心得を以、兼而可有支度候、佐竹右京太夫江茂相達候之条、可被得其意 候

 

 蝦夷地に富山の売薬商人が行商していることは周知 のことであり、幕府の下命は 富山藩の情報量を期待してのことであったと考えられますが、松前・箱館・江差等ならいざ知らず、奥蝦夷の情報までは知り得なかったのです。富山の売薬人が 蝦夷地へ本格的に参入するのは、文政七年以降です。また大藩加賀藩の出動となると、船の数が揃うかという点や、陸路で行くとなると途中の諸藩が受け入れる 能力が問題になります。機械的に富山藩の10倍の兵力を出兵させることになるのですから。それに徳川家とは縁戚関係が強く、かえって遠慮が生じるでしょ う。直接頼むより支藩を通じて泣きつかせた方が何かといい、といった計算があったかもしれません。

(二)文化五~七年の出兵準備

 富山にはロシア艦が「東蝦夷地且松前御領海迄より 異国舩追々相向為乱妨‥‥東 蝦夷人或ハ三百人計も生捕」し放火の限りを尽くしたと伝わっていたため、前田利幹は急ぎ御用番富田筑後直好に指示し、部隊編成準備を馬廻組に命じました。 当番である寺西新蔵の組が江戸勤務のため、代わって西尾勘兵衛の組が担当し、御先手足軽二騎・諸士役人組五騎・寺西組十八騎・西尾組十八騎等・手廻組十六 騎・異風組二騎以下に出陣準備が達せられました。駐屯地が指示されないものの、内々に得た情報から箱館・亀田・久奈尻(国後)とのことであり、そうであれ ば海路で二百二十里を行く事になる。八十八夜から二百十日の間ならよいが、その前後なら陸路がよかろうと判断し、秋田藩に飛脚を通す事の許可を取り付け、 陸路の情報を幕府からも聴取し、異国絵図面や舟印等を調査しました。

 同六年十二月二十六日翌年に出兵することを見越 し、御用掛(人持組・御家老) に二十一歳の富田筑後・若年寄に赤尾権蔵・軍師に安達周蔵を任じて、二十八日馬廻組の担当を蟹江主膳に交替(翌年一月九日出兵準備を発令)、南部藩を参考 に配備計画を建てました。本営は箱館に置くことを想定しています。

 箱館 小屋十八ヶ所 三三八人 陣取地竪三十一間・横四十一間 一二七一坪

 亀田 小屋四ヶ所  一五〇人 陣取地竪十九間・ 横三十七間  七〇三坪

 久奈尻 小屋六ヶ所 二五〇人 陣取地竪二十五 間・横三十八間 九五〇坪

 箱館では文化四年に奉行役所が松前に移され、吟味 役が差配していました。亀田 村には東端に仙台藩、国後のトマリには南部藩が駐屯しています。

 富山藩が幕府に上申した編制は次の通りです。

 

番取一人・物頭三人・目付二人・侍五十人・医者二 人・番外七人・徒士十一人・小 頭十九人・足軽百十五人・長柄小人百三十七人・家中従者二百一人・計五百四十八人、他に宿次人足二百八十人 総計八百二十八人

番頭 蟹江主膳

物頭 鉄炮足軽組頭二人・弓足軽頭一人

組外 鉄炮足軽警固四人・弓足軽警固二人・小荷駄方 下役一人

徒士 集才許一人・貝役二人・大太鼓二人・役旗才許 二人・陣場方小荷駄方下役三 人・横目一人

小頭 鉄炮足軽小頭十人・弓足軽小頭四人・旗指小頭 二人・長柄小頭三人

足軽 大工・鉄炮弓足軽・目付下附・使足軽・武具才 領・陣場方御荷駄方下附・鉄 炮方荷物才領・馬医・御郡方・大筒才領

長柄小人 長柄物・旗善・武具才領仕立足軽・鳥捕・ 鉄炮荷物仕立足軽・弓荷物才 領仕立足軽・集太鼓鎧持人・小荷駄方小使・役長柄陣持小使・玉薬箱持・矢箱持・乗馬口取・小馬印持・里子・普請人夫

 

 出兵船団の陣形は次のように組みました。第一列・ 第二列に各御馬廻組五隊・三 十人、次に警固與外組三人、その背後に弓鉄砲足軽頭が左右に分かれ小馬印を立て傍らに弓手と鉄砲手を従える。後方に長柄隊左右十五人ずつと小頭二人・奉行 一人、続いて馬廻組を十三列左右二十五人ずつと番頭三人を配し、その中央には郡奉行・馬裁許を置く。後陣には総大将馬廻組頭西尾勘兵衛が位置し、傍らに手 筒持左右に二人・持鑓左右に二人・徒士左右に三人ずつ、小姓はその背後に附属、勘兵衛嫡子西尾千代吉(十六歳)と使役一人を左、家来一人を右に従える。勘 兵衛の前には左右に御目付・使役を各一人ずつ、中に太鼓・法螺貝・鉦を二人ずつ配置し、後方左右に乗馬を計五十頭繋ぎ、乗馬裁許が付き従う。それらの後ろ には五旒の旗と一人・役旗警固二人・旗持小頭二人がいる。最後部に小荷駄を付け、小荷駄裁許一人・小荷駄方三人、これに普請作事方と医者三人を附属する。 また大筒十五挺を状況に応じて配備する。

  このように編制した部隊に対 し、「陣場方心得」「足軽頭心得」 「番頭并諸士心得」「舩奉行心得」「小荷駄方兵粮方心得」を達し、頭や侍は私心を加えず公正に指揮すること、軍功を正しく上申すること、帰陣まで私闘を慎 むこと、互いに助け合って行動すること、他領の男女にはみだりに近づかないこと、個人的な買い物はしないこと、等を令します。

(三)路程調査

 富山からは蝦夷地の状況が皆目分かりません。そこ で江差へ駐在している売薬商 を通じて地理・風土の情報を収集する手配をしています。

 

‥‥幸ニ売薬行商三好何某ナル者能ク事理ニ達シ、且 ツ撃剣ニ名アリ、此者江差ニ 在テ、府君蝦夷ヘ御師旅御指出ノ事ヲ聞キ、直チニ私檄ヲ以テ此蝦夷風土記ヲ送リ、其際江差ニ居住ノ橘何某ハ、蝦夷ノ地利人情言語等ニ委シク、前年暴風ノ為 ニ魯国ニ着船シ居ル事一年計、其後暫ク対州ニ寓シ、帰リ魯国ニ到ル事ヲ秘シテ言ハス、故ニ其咎ナシ、三好此者ト懇切ナルヲ以テ、撰用アルヘキヤノ旨ヲ伺 フ、拠テ何レモ渡リニ舟ヲ得タルノ思ヲ為シ、甚之ヲ感悦セリ、‥‥

 

 派兵するに当って蝦夷までの行き方を知らねばなり ません。そこで調査を任され た嶋田平六が、四方や西岩瀬の町役人や直船頭の善六や清九郎、松前へよく行商に行く藤八といった人々から事情を聴取し、八十八夜から七月初秋頃までの内に 東岩瀬から船出すると順風十日で松前に着くこと、馬を船に乗せるのは避けた方がよいこと、等が判明したため、文化六年正月十日付で提出しました。

 また四方船見役の長助に松前への航海図を提出さ せ、更に五月には渋谷猪右衛門 が伏木の船頭魚屋助右衛門に質問した回答を得ました。これには積載量は四歩から六歩くらいにするのがちょうどよい、船積が足りなければ石を下積みせよ、四 百石積以下だと効率が悪いから奥蝦夷へは大船で行くのがよい、松前で水先案内を雇うこと、通訳を同行しなくても先方で調達できる、蝦夷の水質には注意する こと、松前・奥蝦夷でも野菜や魚は入手できるが値段は高い、等と具体的に記され、かつ松前までの里程を示してありました。

 

四方(二里)東岩瀬(一里)水橋(一里)滑川(二 里)魚津(十九里三十一丁)越 後鍋ヶ浦(十二里)柏崎(六里)出雲崎(四里)寺泊(十三里)新潟川(三里)松ヶ崎(九里)新川(二里)瀬波川(十里)出羽鼠ヶ関(十三里)酒田加茂(五 里八丁)酒田川(十二里)塩越(三里)三ッ森(四里)本庄川(九里)秋田川(三里余)栂野船川(六里半)大栂(戸賀)(二里)栂ノハダケ懸り(二里斗)湯 ノ尻(七里)野城川(七里半)奥州深浦(六里斗)鯖ヶ沢(十一里斗)小泊(八里斗)三馬屋(十四里十二丁余)青森(三十五里)佐井

家数は、東岩瀬千斗り・佐渡小木二百四十~二百五 十・越後青島七十斗り・出羽飛 島五百四十~五百五十・栂崎五十斗り・奥州深浦三百斗り

三厩より松前まで十二里、佐井から箱館まで十里斗、 三厩から江指まで三十四里、 深浦から松前まで三十里、深浦から江指まで四十五里

東蝦夷では、箱館(二十里)ウスツク(七十五里)ワ ラカワ(十八里)サルリ(七 十里)アッケシ(六里)ヒハセ(二十里)イツムシリ(二十八里)ネムロ(十八里)クナシリ

西蝦夷では、松前(三十五里)ヲコシリ(五十五里) シャムリ(七十里)ヤケンシ リ(十七里)宗谷(十八里)唐太嶋(十八里)

 

(四)船の手配

 藩は急ぎ郡方に命じて渡海船を調査します。同六年 十月の報告では、西岩瀬には 渡海船四百五十石積一艘・二百石積二艘・百五十石積二艘・百三十石積一艘・七十石積二十二艘・漁船筒船四十石積二艘、四方には渡海船百二十石積二艘・九十 石積一艘・七十石積十三艘・漁船天道舟二十五石積三十三艘・筒舟四十石積十六艘・小筒舟三十石積二艘、練合村には漁船天道舟二十五石積五艘・筒舟四十石積 五艘・小筒舟三十石積五艘、打出村には漁船小筒舟三十石積一艘があるのみで、この他四百二十石積一艘が建造中です。これだと建造中を含めても四百石積以上 は二艘だけに過ぎません。富山藩はこの事実を予め分かっていたようで、すでに加賀藩に頼み込み、三月に八艘を東岩瀬で借り受けました。

 

 七百五十石積一艘 船主宮腰小竹屋善兵衛 船頭水 主十人乗

 六百五十石積一艘 大野村横屋弥三郎 九人乗

 七百石積一艘 本吉手取屋長三郎 十人乗

 六百五十石積一艘 本吉北島屋権兵衛 九人乗

 五百五十石積一艘 曲師屋伊兵衛(氷見間岸屋)  八人乗

 六百石積一艘 粟崎荒木屋藤四郎 九人乗

 四百石積一艘 放生津松屋長兵衛 七人乗

 四百石積一艘 本吉新村屋権三郎 七人乗

 計八艘   船頭・水主共六十九人 他に一艘に付 き二人ずつ増水主

 

 これら八艘は三月二十五日以降に続々と東岩瀬へ集 結し、五月晦日に富山藩の吉 田伝弥・森沢甚太夫・大野平次兵衛・飯嶋久作が見分しています。

 この内、粟ヶ崎から荒木屋藤四郎の六百石積船は四 月四日に到着、本吉から手取 屋長三郎の七百石積船(沖船頭権兵衛)は四月七日、北嶋屋権兵衛の六百石積船(直船頭)は五月三日に到着、四百石積船は新村屋権三郎から明翫徳兵衛の船 (沖船頭平右衛門)に変更され五月六日に到着、氷見から曲師屋伊兵衛の五百五十石積船(沖船頭権七)が三月二十五日に到着、放生津から松屋長兵衛の四百石 積船(直船頭)が三月二十五日に到着します。

 富山藩は自藩の船を予備に廻し、これら八艘の借用 船に五百四十八人を載せて派 兵することに決め、船奉行に計画立案を命じました。そうすると積載量を石数の半分にする限り、当初編制した部隊を輸送することが不可能であると分かりま す。そこで次のように編制し直しました。

 

物資 兵糧米五百四十八貫、呑水二百四十七貫、味噌 二十七貫四斗、塩五貫四斗八 升、薪二千四百貫、御武具荷物八百三十五貫三百九十匁、荷物二千九百二十二貫二百匁

武具 大炮八挺、鉄炮六十一挺、弓二十五挺、長柄鑓 三十本、手木三十本、持鑓・ 手鑓・薙刀六十二本、大船印竿八本、力杖五本、幕三十幕、玉薬箱二荷、矢箱二荷、諸道具長持一指

運搬 香物(大根・茄子・瓜類)・塩辛・塩魚・干 魚・梅干・酒八十二石五斗、醤 油十一石、酢三石六斗七升、大豆・小豆十六石、絹布百五十反、船頭水主増人七十八人、手明人夫五十人、飯米六十八石、呑水三十二石、船頭水主荷物六百九十 貫、人夫荷物六十六貫

乗組渉人数組

 壱番組 四百石積 五十二人

 二番組 七百石積 七十八人

 三番組 六百五十石積 七十六人

 四番組 同 七十六人

 五番組 六百石積 七十人

 六番組 七百五十石積 六十五人

 七番組 同  八十人

 八番組 四百石積  五十一人

大炮の内訳 百目玉三挺(玉二百)、五十目玉二挺 (玉三百)、三十目玉三挺(玉 四百五十)

 筒薬三十一貫二百目、口薬四百目、木綿火縄三十 把、雑檜火縄百二十把、杉火縄 三百把

 

 渋谷の報告によると津軽では寒さ凌ぎと保養の為に 酒を一人一日五合は必要、乗 馬は文化七年の伺書によれば南部と津軽で購入するつもりでした。

 富山会所では五月に船の雇上賃銀を百石に付、東岩 瀬より松前・箱館まで十八両 二分、松前・箱館より上蝦夷地・宗谷まで三十六両、松前より下蝦夷地・国後まで六十八両、蝦夷地并松前逗留中船繋置の借賃三十六両(七月には五十八両にす る)、国後より松前までの登り六十八両、宗谷より松前までの登り三十六両、松前より東岩瀬までの登り十八両二分と試算します。

 次に藩ではこのような部隊を展開するのにいくらか かるか計算し。陸路で行く と、三厩までの往復宿賃一万二貫九十文、馬(五十七匹)賃四百四十八貫八百五十八文、人夫賃五百七十一文、三厩から松前までの運賃八百四十七両、他に陣 屋・番所を建てる費用が必要になります。海路では、御用金三千両を経費に充てる以外に、七百四十九人を運ぶ諸経費が百九十五貫五百目斗、九十坪の陣屋を建 てるのに二十一貫六百目斗、船十艘を雇うのに二千五百両、乗馬の購入費を含まなくても諸雑用に二千両斗は必要、合計して金七千五百両と銀二百十一貫百目に もなります。いずれにせよ脆弱な藩財政で賄える金額ではありません。

 十二月松前奉行から出兵の命が来ないため、江戸聞 番役が松平伊豆守に確認する と、そのまま準備して待機せよとのことでした。それゆえ富山藩では蝦夷出兵に備えて出動待機の態勢を維持しつづけ、装備や宿の手配を継続しています。な お、フヴォストフとダヴィドフはロシア・アメリカ会社に不審を抱いたオホーツク長官により逮捕されています。

 

加 賀藩の対応

 では親藩の加賀藩はどのような動きをしたか。文化 四年六月九日藩主前田齊廣は 海防準備を命じ、十四日能登奥郡の海岸調査、二十一日武具奉行に侍具足・足軽具足を調査させ、御馬廻頭に出陣の準備と三州(加賀・能登・越中)で船舶の手 配、翌日火矢方に防備状況の調査を指示、二十三日には能登奥郡奉行が海岸を巡視しました。二十四日御馬廻頭に海岸防備の内調理を令し、二十六日町医者本 道・外科各一人を選定して非常時に備えることにし、二十七日馬の確保を達し、御歩横目や火矢方等に準備を整えること、翌七月二十日海岸防備のため大筒を備 えるよう令しました。

 このようにすばやい対応を執った加賀藩ですが、翌 年正月十五日に二ノ丸を焼失 したことで、急速に危機意識が減衰してしまいます。財政逼迫のため藩主帰国の際に城の修築資金を幕府から借り、更に在国三年を請いました。藩主が地元で直 接指揮を執るからということにして九月八日異国船への手当てを解除し、十月四日能登にも警戒解除を伝えています。富山藩への出兵準備命令は加賀藩が警戒を 緩めた時期と重なり、そのため富山藩への支援は船舶を貸与するに止まりました。もっとも同六年七月に異国に詳しい高名な本多利明を金沢に招き、蝦夷地の様 子やロシア対策を学んでいるため、富山藩へも何らかの情報提供があったと推測し得ます。

 しかし異国と戦火を交える可能性に直面した藩士達 の間には、動揺する者が少な くなかったようです。文化四年「齊廣様御傳畧等之内書抜」には「右一件に付き、世上人気以之外気立、或は人之強弱相顕はれ、御手当組之家来共尻込む有、又 進むあり。小者抔は俄に病身を申立暇を乞退く者多く有之由」とあり、藩士が臆病風に吹かれていたことが分かります。同年六月二十八日早朝に馬廻一番組の金 森量之助(三十二歳)が奥居間で咽喉を脇指で突いて果てていました(「政隣記」)。これなどは出陣に際しての精神的な疲れからであろうと推測できる。四歳 の娘一人と身重の妻を残し、家は断絶になっています。その一方「又在家より相進み奉公に出るも有」(「齊廣様御傳畧等之内書抜」)と、庶民の意気は軒昂で した。富山藩の出陣史料にはこの種の記録は無いのですが、出兵を控えた藩士の心理状態は似かよっていたのではないでしょうか。この頃に平賀源内の門人の浅 野北水と田沼家浪人という谷玄仲が富山に滞留し、天文・地理を講じていますが、出兵準備に関連があるかもしれません。『

 

待 機命令の解除

 ロシア南下への脅威は間宮林蔵と林田伝十郎による 調査でますます強まり、文化 六年六月幕府は樺太を北蝦夷と改称します。翌月間宮林蔵は東韃靼を探検し、満江川を渡りデトンに到りました。同八年五月ロシア艦ディアナ号が千島を測量し 国後のトマリに上陸したので、六月七日松前奉行支配調役奈佐政辰は再び上陸した艦長ゴロウニン(V.M.Golovnin)少佐等七人を会所に誘い捕縛し ます。翌年八月副長リコルドによる返還要求を拒否し、リコルドは国後海上で高田屋嘉兵衛等を捉えてカムチャツカに連行しました。同十年五月より嘉兵衛を介 してゴロウニンの釈放交渉が開始され、九月十七日箱館で双方の交換が成立します。

 西暦一八〇五年(文化二年)十二月ナポレオンがア ウステルリッツでロシア・ オーストリア連合軍を破り、一八〇七年六月にフリートラントでロシア軍を撃破します。一八一二年六月ナポレオンのロシア遠征が開始され(十月モスクワ撤 退)、軍事的余裕の無くなったロシアは対日強硬路線を転換して、住民(アイヌ)を漸次同化することで蝦夷への浸透を図ります。幕府も住民の撫育・教導と蝦 夷の産業拡大に努め、鰊や鱒・鮭等の漁獲が増しました。

 そこで幕府は同九年九月東蝦夷の直轄を廃止し、同 十年十月箱館・松前以外から 部隊を撤収する事にします。同十一年十一月松前奉行服部備後守貞勝が警備の変更について伺いを提出して、どの選択肢を採用したらよいかを問います。第一に 択捉・国後・樺太の警備を止めて根室・宗谷を境にする、第二に南部・津軽藩部隊を撤収させ秋田・富山藩部隊を展開する、第三に松前・箱館は南部・津軽両 藩、東蝦夷地は根室から択捉までを秋田藩、西蝦夷地江差から樺太までを富山藩に守備させる。幕府は南部・津軽両藩と幕府の防衛負担に限界があり、蝦夷地全 ての守備はできないと判断し、第一案を採用する事にします。同年中に南部藩二百人と津軽藩百人を箱館に残す他、主だった部隊を撤収させました。

文政四年十二月七日松前奉行を廃止し、松前藩の支配 に戻すとともに、箱館・松前 からも南部・津軽両藩の部隊を撤収させます。十八日には富山藩へも出兵準備を解いてよいとの指示があり、佐脇数馬が伝達しています。

 

昨夜江戸より上々急飛脚到着、松前蝦夷地一円此度松 前志摩守様江返下候付、彼地 臨時之御人数已来御手当御用意不及旨、去ル八日御用番青山下野守様より御書付を以被仰渡候段申来候。此段各得共意組支配中江可被申触候。尤組支配之内下才 許有之面々者、其下へも申触候様可被相達候。                                         以上

    十二月十八日 浅野大学

                             頭中江

 

藩 士への出兵準備発 令状況

 藩から蝦夷への出兵準備を発令された藩士につい て、経歴に記された分のみ抜き 出して集計した数を次に紹介します。

 

 文化五年十二月 六十七人

   六年一月  十三人

   七年六月  一人

   八年二月  一人                   

   十年 & nbsp;  三人

   十一年 & nbsp;  一人

   十二年 & nbsp;  二人

   十三年 & nbsp;  二人

   十四年 & nbsp;  五人

   十五年(文政元年) 三人

 文政二年     三人

   『富山藩士由緒書』(桂書房、昭和六十二年) より作成

 

 由緒書には全ての藩士が記載されている訳ではあり ません。またこの中には、一 人で二回の発令を受けた者や親子同陣入りをそれぞれ一人として参入し、医者や親の代番も含めた。それに出兵計画の人数には至っていないことから、経歴に記 載していない藩士がいることも想定し得ます。

 傾向として文化五年十二月に全体の六十六.三%が 発令され、同七年以降は毎年 数人程度であることから、補充のみであることが分かり、文化五年に陣場方・小荷駄方・兵粮方小算用小目付に任じられた川瀬小左衛門は、文政四年の任務解除 まで十四年間そのままでした。また通常任務とは別に隔年でこの蝦夷出兵準備を兼任する場合も多く、中村安衛は会所小算用役路銀方の通常任務とは別に、陣場 方・小荷駄方・兵粮方下役の任に当っています。こういったことから、富山藩としては蝦夷出兵準備を負担に感じつつも文化五・六年までは緊張感を持って態勢 を整えていたものの、同七年以降は形式的に止まっていたと推測し得ます。

 由緒書には、準備費用を捻出できない藩士には藩が 用意金を下賜あるいは貸与し ている事例が散見できますし、また藩は役目出精者には褒賞を与える等、士気を維持する事に努めていました。

 

おわりに

 この一件で、出動を命じられた奥羽諸藩兵は、未経 験の寒さと緊張、食糧の偏り から来るビタミン不足のため苦しんでいます。また駐屯にかかる経費負担も莫大でした。実際に出兵しなかった富山藩でも、これまで幕府の御手伝普請による借 財の累積に加え、この出兵準備は藩財政を確実に破綻へと追い込んでいったのです。

 出兵準備にかかる経費は藩札の発行で補わざるを得 ず、文政二(一八一九)年八 月町方へ銭札二十万貫文を申し付けています。待機命令解除後の文政七(一八二四)年から天保四(一八三三)年までの富山藩平均収支は、家中支給分を除き、 歳入が収入米二万四七六二石・運上高一万二八四両、歳出が江戸と富山で三万七五八両です。宗藩である加賀藩や領内外商人等からの借財は三十万両に達してい ました。

 その一方で、富山藩は事件の調査を通じて蝦夷守備 隊がロシア側の圧倒的な火力 に全く抵抗できなかった事実を聞き、弓・刀はもちろん、火縄銃や大筒での防御が不可能である事を知り、藩主前田利幹自ら酒井流等の砲術研究と試射に力を入 れます。やがて高島秋帆により西洋火術が紹介されると、下曾根信敦門下の松下健作正綱を招き、藩士・砲術関係者を入門させました。更に直接江戸で下曾根家 に学ぶ藩士も出ています。

 ですが財政不足が装備の更新を許さず、蒸気船の購 入も出来ません。御台場設営 も文久三(一八六三)年まで待たねばならなかったのです。維新時の北越出兵時点でも蘭式編制を採っています。もはや諸藩分立下での対外防衛が成り立たない ことは、明らかになっていました。